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再認識の時期

部落問題・部落史が一時期(約30年前)のような隆盛が過ぎ去り、学校現場や社会啓発の表舞台から姿を消して久しい。しかし、部落差別はネット社会を新たな場として急速に再生産・拡散している。その背景には、同和教育が人権教育に移行したことによって、学校教育で部落問題が語られなくなったことの影響が大きい。不十分な知識・まちがった情報が「悪貨が良貨を駆逐する」ように人々の中に広まっている。その一方で、部落問題に真摯に取り組む研究者や活動家は静かに着実に研究や運動を継続していた。その成果がここ数年の間に出版されてきた。ここでは2冊の良書を紹介しておきたい。


最初は『入門 山口の部落解放志』(一般社団法人 山口県人権啓発センター編)である。
部落史(部落解放史)の労作である。山口県をフィールド(題材・史資料)にしているが、内容的には全国に十分通ずるものである。そして何より「史」ではなく「志」に込められた思いに心を打たれる。

部落の歴史は部落解放史でなければならない。ただ単に部落の歴史の事実のみを羅列する歴史
であってはならない。
…部落の歴史を研究する者、学ぶ者、部落の歴史を教える者、こうした人たちはすべて、部落差別に対する怒りを胸に燃え立たせている人でなければならない、と私は思います。
なぜ、こんな不当な差別が始まったのか、なぜ、今日まで続けられてきたのか?
こんな不当な差別に晒されながら、昔の人はただ黙って耐えるだけだったのだろうか?
部落差別に怒りを抱く人なら、こんな疑問が当然のように湧いてきます。この疑問の解答は、歴史を究明していくことで見つかってくるはずです。それ以外に方法はありません。
部落の歴史の研究、その成果を広く人々に広めていく歴史教育、また、差別をなくしていくために自覚的に行う歴史学習、すべては部落解放のために行うのです。

布引敏雄「はじめに」

巻頭の「部落問題ってなに?」は部落問題の本質を的確に捉えていてわかりやすい。本来はより詳しく記述したいところをコンパクトに要点をまとめている。

2002年に一連の特別措置法が失効すると、「部落問題は解決した」「終わった」という誤った認識などが広がり、学校や社会教育などでも部落問題を学ぶ機会が激減していきました。部落問題について正しく学ぶ場がなくなっていく一方、情報化社会の進展によってインターネットやSNSを悪用した差別扇動がより深刻になりました。ネット上の差別が放置・容認される状況は実社会でも「差別のハードル」を下げ、全国各地でも深刻な差別事件があいつぎました。

川口泰司「部落問題ってなに?」

最後の一文で述べられた「差別のハードル」が下がっている状況への危惧を私も人一倍痛感している。ネット社会という仮想空間での「言論の自由」が人々の「自由」という認識(価値観)を狂わせていることに気づいていない。ネット社会が実社会と深くつながっていることに気づいていない。まるで「ゲーム感覚」のようにネット社会は隔絶された仮想空間であり、その中で完結するとでも思っているのだろうか。ネット社会が実社会に及ぼす影響は計り知れないのだ。

次の「山口の部落解放小史」は近世から戦後までの部落史を、時代の流れの中で全国の動きとの呼応や山口(長州)の独自の動きを簡潔にまとめている。時代背景との関連にもふれながら、差別への抵抗と部落解放への動きを史資料やデータから解説している。
この2つの小論を基軸として、「前近代編」「近代編」「現代編」では部落問題に関わりの深い<地元の人物>を取り上げて、その人物像を通して各時代及びその社会における部落問題の実相・部落差別の本質をわかりやすく解明している。
例えば、吉田松陰の名は知っていても、彼が部落問題と関わっていたことを知る人は少ないだろう。柳田国男に影響を与えた上山満之進、与謝野鉄幹の実兄が部落に飛び込んだ僧侶赤松照幢など。
特筆すべきは、憲法14条に関して「社会的地位」を「社会的身分」に改めさせることに尽力した人物の一人田村定一である。GHQの提示した「socialstatus」では「社会的地位」として受けとめてしまい,日本固有の身分制度を背景にもつ「部落問題」の解消にはつながらない。平等権としては不十分である。福岡の田中松月氏や松本治一郎氏は知っていたが、彼の名は私も知らなかった。(拙文「憲法14条」

「現代編」の「最近の状況」は、インターネットの普及による悪しき弊害として「ネット時代における部落差別」について言及している。限られた紙面でここまで的確に要点と課題をまとめている執筆者に敬意を表したい。執筆者が日頃からネット上の部落問題に心を痛めながら真摯に向き合い解決の方向を探っている弛まぬ努力の証左であろう。ネット上の「誹謗中傷」に関する厳罰化に向けた法改正がようやく行われたが、遅いし不十分である。今後はさらに陰湿化・狡猾化・巧妙化していくことは予測できる。本書が提起する法整備に向けた運動が高まることを願っている。

「あとがき」にもあるように、部落差別は一時的・表面的には見えなくなっているが、ネットという匿名性を隠れ蓑に、誰もが自由に公表・拡散できる場を利用して、より巧妙に狡猾に過激さを激化させている。その要因が学校現場・教育現場にあることは明らかである。なぜなら同和教育から人権教育に移行して以降、急速に「部落問題を教えなくなっている」現実がある。「寝た子を起こすな」の時代に逆行している。部落問題を不十分な知識で得た人間にとって「悪しきネタ」になっている。

本書を手に取った教員がこの「巨魚」をどう「料理」して「完食」させることができるだろうか。問われているのは教師の姿勢である。教え方一つで、教える内容で、部落問題は確実に解決に近づくはずだ。本書のような「労作」を全国各地で「地元教材」を活用して作成してほしいと切に願う。


次に『人間に光あれ 日本近代史のなかの水平社』を紹介したい。

全国水平社に関する書籍は数多い。史資料の発掘や、その丁寧な分析と考察、さらには各地方における水平社運動、また水平社運動の影響など、ほぼ全容が明らかになっている感がある。その上での本書はいかなるものかと読んでみた。

同じ執筆者が著した『差別の日本近現代史』の延長にある本書がめざしたものは、「執筆にあたって」に書かれているように、<日本近代史のなかに水平社運動を位置づけること>である。
すなわち、近代史における部落問題・部落差別・部落解放の歴史を政治的運動として描くのではなく、近代社会の歴史過程における部落問題・水平社運動とはいかなるもの(位置付け)であるかを解明することに焦点を当てて書かれている。

明治以後の社会の変化、近代社会への歴史過程、それらとの関連づけながら、部落差別の実態(変容)と差別への闘いの中で生成・成立・発展・消滅・復活した水平社(運動)を丁寧に検証することで、近代史の中に的確に位置付けようとした試論である。

…近代史のなかに位置づけるということは、ほかならぬ水平社運動を生起させざるをえなかった日本近代の歴史を問うことにほかならない。近代社会における部落差別は、社会の構成員がつくり出し、今日にいたるまでさまざまな理由を与えて維持してきたものである。水平社の運動は、それとの闘いであった。

「あとがき」

この視点は重要である。先の『入門 山口の部落解放志』の目的(意義)とも重なる。つまり、水平社がつくられるには「つくらざるをえない(つくらなければ)理由」があったということであり、それは当時の政治・社会・人々の人権意識に問題があったということである。この視点から近代史(歴史)を見れば、従来のような<できごとの羅列の歴史>ではわからない民衆史が明らかになっていくだろう。そして、それこそが「同じ轍を踏まない」ために必要な歴史観である。

明治以後の近代史を民衆の視点から正確に把握するためには必読の書といえるだろう。
混迷する現代、人権が拡大していく一方で、ネット上の誹謗中傷や人権侵害が激増している現在、あらためて差別とは何か、差別を克服するためには何が大切か等々を歴史に学ぶことが求められているのではないだろうか。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。