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新たな部落問題の課題(6)置き去りの部落問題

黒川みどり氏の『[増補]近代部落史』に、最近の「意識調査」についての考察が述べられている。少し長いが引用する。

部落問題をめぐる人びとの意識は、“人権の時代”のもとで変化を遂げているのだろうか。
2017年、内閣府政府広報室がまとめた『「人権擁護に関する世論調査」の概要』によれば、「日本における人権課題について、あなたの関心があるものはどれですか」と複数回答を可として問うた結果、「障害者」の51.1%を筆頭に「インターネットによる人権侵害」(43.2%)…「部落差別等の同和問題」は20項目中13位で14.0%となっており、部落問題への関心が高いとはいえない。

この意識調査をどのように受けとめるか、人それぞれであろう。確かに一昔前よりも部落問題に対する意識は低減している。人々が気にしなくなったことには様々な要因があるだろう。人権一般に対する認識(人権を認め合うことの大切さ)、あるいは差別はまちがいであるという認識(差別はいけないという認知度)が高まってきた背景にある教育や啓発の功績は大きい。


同和教育を否定し批判する人間もいるが、私はそうは思っていない。まちがった方法や指導内容、歴史認識など批判されるものもあったが、修正したり改善したりしながら30数年間の実践が人々の意識を変えていったことはまちがいないと思っている。左翼主義思想やマルクス主義思想を目の敵にして、それに依拠した部落史理論を全否定する人間がいるが、独断と偏見でしかないと思っている。同和教育を行ってきた教師に左翼思想もいれば右翼思想もいる。部落史理論においても、さまざまな立場の人間がいた。一概に決めつけて断じるほど、狭くも浅くもない実践の世界であり、差別解消に向けた熱い思いを持った教師たちであった。知りもしないで語るべきではない。

ただ残念ながら、私も含めて多くの教師が「後継者」を育ててこなかった。伝え切れていない。この責任は重いと思っている。

…住田一郎は、同様に大学生の意識の希薄化を指摘し、希薄化それ自体は「基本的には、このような状況になるまで、運動や行政・学校も含めた啓発活動が進められてきたからだと考えてい」るとしつつも、「彼ら自身が部落問題そのものと面と向かって、取り組んできたのか、正しい知識としても部落問題を知っているか、と問われれば、残念ながら非常に危うい。ほとんど正しく知らされていない」と述べた。…現に、啓発や教育の場においても、「人権」の名のもとに、目新しい問題に取って代わられて部落問題が取り上げられることが少なくなっている。

大学生を対象とする授業で自らが被差別部落出身であるとカミングアウトして部落問題について語っても、「学生はみなキョトン」として、「部落民という人に会ったのは初めです」などのレポートを書くという。さもあらんと実感する。

その原因はどこにあるのか。同和教育から人権教育、部落問題から他の人権問題へと重点が移行して約20年、学校で部落問題が教えられなくなって久しい。そして「教えなかった」から「教えられなくなった」のだ。それは「教えることができなくなった」からだ。

…にもかかわらずなぜ“人権”が高唱される時代にあって、部落問題を正面から見すえることが回避される傾向にあるのだろうか。

埼玉県人権教育研究協議会が行った「同和教育」に関する教員の意識調査では、「同和教育」を「やりにくくはない」と答えた者は23.5%で、それ以外の人たちは何らかの要因で「やりにくさ」を感じている。その理由を尋ねると、「間違ったことを教えてしまわないか不安」51.7%、「適切な教材がわからない」41.8%とつづいており、その背後には、生半可な知識で語ることによって差別問題を引き起こすことへの怖れがあると考えられる。そうした際に前述の「誇りの語り」は、語り手にとって、差別の歴史や実態に踏み込むよりもはるかに安全地帯に自己の身を置くことができるものとして有効に機能するのである。

上記の教員の「本音」は、実は同和教育以前よりずっと言われ続けてきたことである。何も今に始まったことではなく、むしろ現在の方が「人権教育」の名の下で他の人権問題を教えることを通して部落問題にも共通する「人権侵害」や「差別問題」を教えることになるから、何も部落問題を教える必要はないという主張に行き着く。明らかに「言い訳」でしかないのだが、「人権教育」を隠れ蓑に正論化している。

先の大学生の現状をつくり出しているの、紛れもなく「同和教育」を回避してきた教師の責任であり、しっかりと伝えてこなかった我々世代の教師の怠慢である。と同時に、部落問題学習の多様化に比べて、部落問題の要因を明確化し解消への展望を示す部落史学習の理論化と教材化がなされてこなかった。マニュアルやパターンに堕ちる危険性があるが、やはり「指導書」が必要であったのかもしれない。


手元に『小学校・中学校社会 人権・同和教育基本資料-基礎的知識と学習展開案-』がある。これは東京書籍が作成した教師向けの補助的な指導書である。内容的には不十分さは否めないが、教科書会社がこのような部落史・部落問題の専門的な指導書を作成したこと自体を高く評価したい。他の教科書会社は「指導書」の中に記述しているだけであって、東京書籍のように別冊子として作成しているものはない。この冊子を使えば、ある程度の基礎知識を教える部落史学習は可能である。

また、私自身も部落史について概説的な本を書いたり、各地で講演も行ってきたが、どれだけ伝え切れただろうか、やはり不十分さを反省とともに感じている。やはり、体系的に詳しく説明している「指導書」が必要である。

…「解消に向かっている」がゆえに問題にする必要がないという考え方も、部落問題が置き去りにされる要因になっている。
…人権問題は、人権侵害の程度の相対的低減を理由に放置されてよいものではない。ところが、部落問題のみが解消傾向を理由に対策不要論が横行する。

教師自身がいつのまにか、このような部落問題認識に立っている。だから「教えなくてもよい」と安易に放棄し、部落問題を置き去りにして教科書を進めてしまう。無責任の誹りは免れないが、現状はほとんどの教師が教科書記述を反復するだけである。淡々と「事実」「経緯」を伝えるだけの授業に終始する。どれほどの内容が生徒の記憶に残るだろうか。部落問題への関心をもつだろうか。部落問題の解決に主体的に取り組む意欲を持つだろうか。

近世社会には賤民身分が存在し、近代においては、「解放令」が発布されたにもかかわらず、今日に至るまで部落問題を存続させてきたという歴史的事実は消すことができないのであり、中学・高校の歴史教科書には記述され、部落問題の存在を直視することからは免れえないのである。そうであるならば、他の問題と同様に、私たちは歴史に学び部落問題に向き合う努力をつづけてゆかねばならない。

この一文こそが、教師が部落問題を置き去りにしないために「自覚すべき」ことである。そして、教師が生徒に部落史を説明し、部落問題を語る意義である。


黒川氏は本書の最後に、竹内好の言葉を引用し、普遍的人権をめざす必要性を説いている。

…差別を与えている人間は、差別しているということで彼ら自身が差別の中にいるのであります。しかも、悪いことに、自分が差別しているという自覚がない、あるいは、差別という事実の存在していることを知らない。これがじつは最大の差別であり、人権の欠如であります。

差別からの解放を理念的には考えていながら、現実におこる差別を見すごしてしまう自分のよわさ、いや差別に反対し、解放を口にしながら差別をおかす人は、その間違い、よわさをどうやって克服し、真に解放の側に立つ人間になりうるのか、そのためにどうしたらよいかという、私自身の反省であります。知らぬことで差別者に転落していく、それをどうやってふせぐかです。

人権はやはり、自力でたたかって取るべきものであろう。そのたたかい取る過程で、人権感覚もおのずから身につくのだろう。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。