新たな部落問題の課題(6)置き去りの部落問題
黒川みどり氏の『[増補]近代部落史』に、最近の「意識調査」についての考察が述べられている。少し長いが引用する。
この意識調査をどのように受けとめるか、人それぞれであろう。確かに一昔前よりも部落問題に対する意識は低減している。人々が気にしなくなったことには様々な要因があるだろう。人権一般に対する認識(人権を認め合うことの大切さ)、あるいは差別はまちがいであるという認識(差別はいけないという認知度)が高まってきた背景にある教育や啓発の功績は大きい。
同和教育を否定し批判する人間もいるが、私はそうは思っていない。まちがった方法や指導内容、歴史認識など批判されるものもあったが、修正したり改善したりしながら30数年間の実践が人々の意識を変えていったことはまちがいないと思っている。左翼主義思想やマルクス主義思想を目の敵にして、それに依拠した部落史理論を全否定する人間がいるが、独断と偏見でしかないと思っている。同和教育を行ってきた教師に左翼思想もいれば右翼思想もいる。部落史理論においても、さまざまな立場の人間がいた。一概に決めつけて断じるほど、狭くも浅くもない実践の世界であり、差別解消に向けた熱い思いを持った教師たちであった。知りもしないで語るべきではない。
ただ残念ながら、私も含めて多くの教師が「後継者」を育ててこなかった。伝え切れていない。この責任は重いと思っている。
大学生を対象とする授業で自らが被差別部落出身であるとカミングアウトして部落問題について語っても、「学生はみなキョトン」として、「部落民という人に会ったのは初めです」などのレポートを書くという。さもあらんと実感する。
その原因はどこにあるのか。同和教育から人権教育、部落問題から他の人権問題へと重点が移行して約20年、学校で部落問題が教えられなくなって久しい。そして「教えなかった」から「教えられなくなった」のだ。それは「教えることができなくなった」からだ。
上記の教員の「本音」は、実は同和教育以前よりずっと言われ続けてきたことである。何も今に始まったことではなく、むしろ現在の方が「人権教育」の名の下で他の人権問題を教えることを通して部落問題にも共通する「人権侵害」や「差別問題」を教えることになるから、何も部落問題を教える必要はないという主張に行き着く。明らかに「言い訳」でしかないのだが、「人権教育」を隠れ蓑に正論化している。
先の大学生の現状をつくり出しているの、紛れもなく「同和教育」を回避してきた教師の責任であり、しっかりと伝えてこなかった我々世代の教師の怠慢である。と同時に、部落問題学習の多様化に比べて、部落問題の要因を明確化し解消への展望を示す部落史学習の理論化と教材化がなされてこなかった。マニュアルやパターンに堕ちる危険性があるが、やはり「指導書」が必要であったのかもしれない。
手元に『小学校・中学校社会 人権・同和教育基本資料-基礎的知識と学習展開案-』がある。これは東京書籍が作成した教師向けの補助的な指導書である。内容的には不十分さは否めないが、教科書会社がこのような部落史・部落問題の専門的な指導書を作成したこと自体を高く評価したい。他の教科書会社は「指導書」の中に記述しているだけであって、東京書籍のように別冊子として作成しているものはない。この冊子を使えば、ある程度の基礎知識を教える部落史学習は可能である。
また、私自身も部落史について概説的な本を書いたり、各地で講演も行ってきたが、どれだけ伝え切れただろうか、やはり不十分さを反省とともに感じている。やはり、体系的に詳しく説明している「指導書」が必要である。
教師自身がいつのまにか、このような部落問題認識に立っている。だから「教えなくてもよい」と安易に放棄し、部落問題を置き去りにして教科書を進めてしまう。無責任の誹りは免れないが、現状はほとんどの教師が教科書記述を反復するだけである。淡々と「事実」「経緯」を伝えるだけの授業に終始する。どれほどの内容が生徒の記憶に残るだろうか。部落問題への関心をもつだろうか。部落問題の解決に主体的に取り組む意欲を持つだろうか。
この一文こそが、教師が部落問題を置き去りにしないために「自覚すべき」ことである。そして、教師が生徒に部落史を説明し、部落問題を語る意義である。
黒川氏は本書の最後に、竹内好の言葉を引用し、普遍的人権をめざす必要性を説いている。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。