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誹謗中傷の背景2 … 正義の仮面の裏で

未だに繰り返されているのが、ネット上の「誹謗中傷」であり、「あおり運転」である。これほどに新聞やTV、ネットニュースなどで、その自分勝手な横暴さと卑劣さ、人を深く傷つける言動、さらに法的な厳罰化の動きが報道されていながら、一向に収まる気配すらなく、新たな事案が生まれている。その多くが一時的な感情によるものだとしても、決して許されるものではないことくらいはわかるだろうが、同じ事案が繰り返される。その根本的な要因はどこにあるのだろうか。


「誹謗中傷・罵詈雑言」の背景を様々な角度から検証していると、いろいろと不可思議なことが明らかになってくる。
誹謗中傷の投稿をした人間がその理由について、皆(書き込み・コメント)に流されて、噂や(ネット上の)情報を鵜呑みにして、(許せない・怒りがわいて)一時的な感情から後先考えず…といった「軽率」「軽薄」を「言い分け」のように使っているが、そんな表面的な言葉に隠れた「煽動者」の実体が見え隠れしているように思う。

「煽動者」には大別して3つのタイプがあるように思う。1つが「愉快犯型」であり、2つが「自己顕示型」であり、3つが「ルサンチマン型」である。これら3つの型、一人の人間の内部(心理および心理的背景、生育歴や家庭環境、人間関係と生活環境など)で複雑に絡み合いながら形成されてきたと考えられる。つまり、必ずしもどれかの型に当てはまるのではなく、「ルサンチマン型」が「自己顕示型」と合体していたり、「自己顕示型」と「愉快犯型」が合体しているというような分析できる。

「愉快犯型」や「自己顕示型」については想像に難しくないだろう。面白可笑しく騒ぎ立てることで、いわゆる「炎上」を起こさせて楽しむのが「愉快犯型」であり、「自己顕示型」は自分の存在をアピールしたい、目立ちたい、注目されたい、あるいは自分の「優秀さ」を誇示したい、賞賛されたい思いから投稿やコメントをするタイプである。両者とも他者(相手)のことなど全く考えていない。

これに対して最も面倒なのが「ルサンチマン型」である。
「ルサンチマン」(ressentiment)とは、『広辞苑』によると「ニーチェの用語。弱者が強者に対する憎悪や復讐心を鬱積させていること。奴隷道徳の源泉であるとされる。一般に、怨恨・憎悪・嫉妬などの感情が反復され内攻して心に積もっている状態」と説明されている。
つまり、過去あるいは現在において何らかのできごとによって他者に対する「怨念」や「憎悪」、「嫉妬」を抱き、その「復讐」として別の誰かを攻撃(誹謗中傷・罵詈雑言)するタイプである。軽いストレスからの一過性のタイプもあれば、異常なほどの執念深さからの粘着気質のタイプもある。
自らを「弱者」(の立場におかれている)と勝手に規定し、他者から一方的な(理不尽な)攻撃を受けた「被害者」であると思い込み、それゆえに「復讐」(仕返し)しても許されると考える。決して、その要因に自分の言動や人格が影響しているとは思わない。すべて他者が「悪いのだ」と自己正当化に走り、内部に「怨念」「憎悪」「嫉妬」を増殖させていく。相手が替わって同じようなできごと、他者とのトラブルが起こっても、その要因も結果も、それまでと同様に他者のせいにして自らの正当化と他者への憎しみを倍加させていく。見事なほどの自己解釈が行われる。

「ルサンチマン型」が「自己顕示型」と合体した場合、例えば他者からの「賞賛」「賛同」を欲しながらも、何らかの要因でそれが叶わなかったとき、すなわち他者や周囲から認められなかった場合など、異常な顕示欲は「怨念」「憎悪」「嫉妬」に転化する。自らの言動に要因を見ず、他者や周囲の中に要因と責任を求める。自分が大学を出てないからバカにするのだとか、自分が指示に忠実に従わなかったから仕事や役目、組織などから排除・排斥するのだとか…、自らの学歴コンプレックスを学歴差別に転化しているとは思わない。自らの言動が周囲との摩擦を激化させたのだとは思わない。「相手にされない自分」を顧みることはせず、「自分を相手にしない周囲」が悪いのだと決めつける。大学や大学院を出た人間より自らの方が「優秀」であることを証明するために難解な書物を読み、万巻の書物を収集し、誰彼なしに批判を繰り返す。その際には必ず出身大学名を出して貶す。大学を出ていない自分の方が優秀であると自分を納得させなければ気が済まないのだ。これが「仕事」や「役職」「容姿」などでも同じことが言えるだろう。

自らのコンプレックス(劣等感)や過去のできごとがトラウマのように心の奥底に沈殿し、気に障るようなことがあると、まるで「スイッチ」が入ったかのように、「復讐」が開始される。執拗に、過激に攻撃が行われる。相手のダメージが唯一自らのトラウマを癒やしてくれる。さらにそれが「快感」になり、「愉快犯型」にも合体していく。相手の苦悩する姿、相手が不快感を抱く様、それが自分を満足させていく。それゆえ、相手がダメージを受けなかったり、何より相手にされなかったり無視されたりすることが最大の「屈辱」となる。自己顕示欲が満たされず、復讐が果たされないからだ。だから、執念深く、手を替え品を替え、執拗に相手の厭がることを考え抜いて実行する。
また、ブログやSNSなどに、自らの「優秀性」をひたすらアピールし続ける。なぜなら、砂漠に砂をまくように「自己満足」には限りがないからだ。虚しい徒労であっても、それ以外に渇きを癒やす方法を思いつかないのだ。

しかも、彼らの「誹謗中傷・罵詈雑言」は巧妙に、狡猾になってきている。匿名性を隠れ蓑にできなくなってきた現在、大衆心理や世評を上手く利用したり(「反社」や「教委」「行政」の名を使ったり、「噂」や「情報」を操作したり)、高名な学者の著作や論文からの理論や論理を借用して武装したりして、さも正論であるかのように、さも正義であるかのように装う。しかし、彼らの本性は「正義の仮面の裏で舌を出す」なのだ。


最近頓に気になっているのが「思い込みの恐ろしさ」である。例えば「ネトウヨ(ネット右翼)」などである。コロナ感染に関する情報の錯綜に乗じて、中国による生物兵器攻撃であるとか、ワクチン陰謀説であるとか、デマとしか思えない情報が真しやかに拡散している。これらの情報を読み続けているうちに信じ込むようになり、洗脳されてしまう。

E・フロムが『自由からの逃走』で分析したナチスのプロパガンダのような権威主義的支配にいかに人間が弱いかを思い起こす。D・リースマンが『孤独な群衆』で提起した「他人志向性」はネット社会の住民にも当てはまる。高校生の時に恩師に借りて『自由からの逃走』を読んで以降、フロムの心酔して、『人間における自由』『正気の社会』などを読んだ。私が社会心理学を専攻したのもフロムの影響が大きく、集団(群衆)心理などの考察は部落史・部落問題に関わる上で随分と参考になった。現在のコロナ渦における人々の行動、例えば自粛警察など、そしてネット上の「誹謗中傷・罵詈雑言」の問題に関しても…。時代や社会が変わろう(発展しよう)と、人間の言動に与える集団心理の影響はさして変わらないのだと思う。哲学や思想ではなく、心理が人間の行動や言動を左右しているのだ。

過激な情報、信じがたい情報に洗脳された人間は、いつしか自らも「煽動者」となり、より過激な発信を繰り返していく。「思い込み」は正常は判断力を奪い去っていく。それは、頭脳の問題ではなく、心理の問題である。なぜ、このような行動や言動を行うのか、行わざるを得ないのかを自己分析、自らの心を冷静に見つめれば、その原因は明らかになることだろう。ただ、それさえも認めず、自己流解釈に走り、理屈と言い分けで押し殺してしまう人間もいる。内部ではなく外部に要因を求めて自己保存(自己正当化)するタイプに多く、残念ながら、友人・知人が少なく孤立的な人間が、閉鎖した日々を長く過ごしていれば、変わることは無理であろう。

「目的のためには手段を選ばず」という言葉があるが、私は「目的のために手段を正当化してはならない」と思っている。しかし、「自己正当化」に走る人間に限って、自らの「正義感」を絶対化してしまう。自分のためではなく、他者(万人)のためであるとか、世の中のためであるとか、社会のためであるとかという「大義名分」をこじつけて自らの「正義感」を正当化する。
すべてが自己流に徹している人間は、書物にしてもネット情報にしても自分に都合のよい解釈しかできなくなるのである。その結果、自らの言動が他者を傷つける「誹謗中傷・罵詈雑言」と化していることさえ「正義感」「自己正当化」の手段と思うのである。


コロナ渦の中、世界中で「臆測」「自己流解釈」「思い込み」「独善」などから、実に多くのフェイクニュースやデマ情報が流れている。
「コロナはただの風邪」から「ワクチンは人間をロボットにする」「ワクチンで遺伝子が組み換えられる」まで科学的・合理的に思えるトンデモ説が拡散し、その根拠として「世界の覇権を狙った中国の生物兵器」「人口削減が目的」などの陰謀説が真しやかに吹聴されている。

こうした偏った情報を鵜呑みにして、次々に似たようなデマ情報にアクセスし、深みにはまり傾倒していく。やがて「洗脳」されてしまう。そして、新たな「煽動者」が生まれて、デマ情報を流していく。

彼らに共通するのは、「誰も知らない(最新の、深き闇の、極秘の)情報を知っている」という優越感と自己顕示欲、「正義のため」「皆に警告して助けなければ」「善意から」という「正義感」と「使命感」から真偽の判断ができなくなることである。
他者からの忠告は「自己正当化」「自己顕示欲」「自己保身」によってシャットアウトされる。誰からの声も「聞く耳持たぬ」状態に陥る。

特に「正義」「善意」「使命感」「自己顕示」「自己正当化」の感情や意識が強ければ強いほど、独善性が強くなる。しかも、そのことに「気づかない」で、デマ情報やフェイクニュースを流し続け、家族や周囲、さらに受信した人々を混乱させ、苦しめたり悲しめたりしても、「自分は悪くない」と思い、ますます過激になっていく。

これは、「カルト宗教」の問題によく似ている。また「民衆の暴動」にもよく似ている。
宗教の怖さは多くの人が指摘している。民衆による暴動も大衆心理・社会心理から分析されている。どちらも信じ込んだ(思い込んだ)結果、周囲が見えなくなってしまい、正常な判断ができなくなる。いわゆる「流されてしまう」のだ。

フェイクニュースやデマ情報は暴力的・攻撃的ではないからと言う人間もいるが、果たしてそうだろうか。「言葉の暴力」「言葉の攻撃性」もある。同じである。むしろ逆に「顔の見えないネット社会」だからこそ、余計に残虐性は増すのではないだろうか。無責任さと法規制の弱さから攻撃性も倍加するのではないか。

自分の学説以外はすべて「敵」のように否定し、揶揄・愚弄する人間がいる。宗教のおけるドグマ(教条主義)のように、自説のみを正当化して他説を排除・排斥する。「ルサンチマン型」の人間が陥りやすいが、他者に自説を批判されたり無視されたりすると異常に過激化していく。学説の論争であれば、学説を批判すればよいが、相手にされないとその説ではなく説を唱える人間や賛同する人間を攻撃し始める。
そのような学説を唱えるのは、その人間がこのような考えを持っているからだ。このような考えを持つ人間だからあんなこともするだろう…、というような臆測が自己増殖し、妄想が膨らんでいくことで、その人間の人間性や人格まで否定する攻撃を繰り返していく。

まさに「聞く耳持たぬ」頑迷さによって「自己正当化」と「自己保身」を保とうとしているのである。
「僕は悪くない。悪いのはあいつらだ。僕は被害者だ。自分を守るために攻撃しているのだ。だから許されるのだ」「僕はまちがっていない。まちがっているのはあいつらだ。まちがった学説だから差別はなくならないのだ。僕の学説に皆が従えば差別はなくなる。世のため人のために、まちがった学説を唱えるあいつらを攻撃しているのだ。」の論理、勝手な自己流解釈である。

フェイクニュースもデマ情報も、誹謗中傷・罵詈雑言も同じ穴の貉でしかない。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。