雑誌『現代の眼』(現代評論社)11月号に掲載されている、沖浦和光と菅孝行の対談「賤民史観樹立への序章」から、彼らがどのように「賤民史」を捉えているかをまとめているが、今回は「賤視観」の背景(要因)となる<穢れ思想>と政治権力(支配者・支配体制)の関係についてみておきたい。
前回、「穢れ意識」が<聖>から<賤>への転換の大きな要因であると沖浦は考えている。それは「穢れ意識」に対する権力者あるいは民衆の受容が(年月を経ながら徐々に)変化したのであり、その背景には政治体制や社会状況の変化がある。さらには仏教や儒教、神道など宗教、思想の影響も大きい。それらは「ケガレ観」として日本社会固有の倫理観として民衆の生活に浸透していったと考えられる。しかし、それだけで江戸時代における穢多・非人に代表される被差別身分の人々を「賤視」し、「排除・排斥」していったであろうか。あるいは、彼らを民衆が自分たちとは「ちがう存在」として距離を置いたであろうか。そこには、「穢れ意識」が具体的な行為として表れていたからと考える。それが弊牛馬処理であり捕亡・行刑であったのではないだろうか。支配体制側にとっては必要な「役目」であり、平人(百姓や町人)にとって必要な仕事であっても、それらを行う(行わされる)被差別民に対する「賤視」は別の意識であったと考える。自らがしたくてもさせてもらえない、あるいは自分たちはしたくない、そのような思いから生じる意識(感情)であったとは考えられないだろうか。
沖浦の説明を受けて、菅は権力構造と差別意識の関係について、次のように考えを述べている。
誰が「聖」と「穢」、「貴」と「賤」を決めたのか、つまり「聖」「貴」があるから、その対極として「穢」と「賤」が作られ、その対象も決められたのである。そして、長い歴史の中でこの二極構造の価値観が共同幻想として制度化されていった。沖浦はそのを遊芸人を例に説明している。
「しがない」とは言い過ぎな気もする。大道芸人にせよ門付芸人にせよ、すばらしい伝統芸であり「祝人」「神人」の系譜をひく者である。この頃までは民衆のおいては<聖>と<穢>もしくは<賤>の両義性をそのまま持っている存在と見ていたと考えられる。
また、マルクス主義者であり共産党員であったからか、「オルグ」などの言葉で表現しているが、確かにスパイ活動に近い、誰かの指示ではないにせよ、自然と諸国の情報を収集していたであろうことは推測できる。彼らの情報を利用しようとした領主や武将はいたであろう。
政治体制や社会体制の変動によって、彼らの存在もまた変容していったことも想像できる。特に民衆の彼らに向けられた意識が大きく変化していったことで、<聖>と<賤>の境界が大きく変わったと考えられる。
沖浦は「歌舞伎」「能」を例に<賤民芸能>を系譜に持ちながら<日本の伝統芸能>になっていったかを明らかにする。
日本の伝統芸能が<賤民芸能>の系譜を引くことは歴史学者や文化史の研究者も認めるところだが、歌舞伎にしても能楽にしても、いつ頃から<賤>を抜け出したのか、人々の<賤視>が解消したのだろうか。
沖浦は「紺屋」について、次のように述べている。
「賤民から抜け出た」とはどういう意味なのかが気になる。権力(領主・藩・幕府)が決めたのか、民衆が決めたのか、あるいは「芸能」と「賤」「穢」を分離して認めたのか。岡山藩においては「照葉歌舞伎」は「山の者」(非人)が行っていた。武士が見物に行くほどであった。(ただし、武士の見物人はお咎めを受けて、以後は見物の禁止が命じられている)
「関わり」「交わり」の境界線があり、その境界が厳密に守られている場合とそうではない場合があるような気がする。それは「触穢」を基準にしているのか、長い歳月の中で変容したり曖昧になったりしたのであろう。
<芸能>として認めながらも<賤視>する。「見物」はするが、自分たちの「境界内」には入れない。