同和教育とは(3) 「差別意識」を見直す(1)
この詩を何十回、何百回と目で追い口にしてきただろうか。この詩を読む度に、まるで「鏡」のように自分の「心(内面)」が映し出されてくる。そして洗い流されていく。
「差別」「差別意識」「偏見」等々、人は簡単に口にする。しかし、何をわかっているのか。
人は他人のことは、その言動を鋭く指摘する。わかったように批判する。しかし、自分のことは、自分の言動や態度はどうだろうか。
人は「反省」を口にする。しかし、また同じことを繰り返してしまう。何をわかっているのだろうか。
この短い「詩」に込められた深い洞察に気づく人間はどれほどいるだろうか。最後の一文、「あやまち」とは何であろうか。人それぞれに「あやまち」を思い浮かべるだろう。しかし、自分の言動の「元」にある「あやまち」にどれほどの人間が行き着くだろうか。
江口いとさんの詩に『恐ろしい偏見』がある。これも私の好きな詩である。
私が知るかぎり、「偏見」とは何かをこの詩ほど端的に言い当てているものはない。
同和教育とは、自分のために、自分と向き合うための実践的教育である。部落問題の解決、部落差別の解消、もちろん目的ではあるが、<差別>する可能性のある<自分>を問い続ける教育である。部落のためとか、人のためとかの同和教育と勘違いしているから形式的な道徳の授業に終始してしまうのだ。
何より独り言を呟くような「批判検証」ほど独善に陥る。人間は他者に指摘され、他者に批判されてこそ反芻することができる。気づくことができる。
語り合うことでわかることの方がはるかに多い。人の話を素直に聞き、真摯に考え、自らの心に素直に思いを語る。その相互作用によって、自らの言動も生き方も変わっていくことができる。徳島県板野中学校で森口健司氏によって始められ、全国へと広がった<全体学習>は、まさに同和教育の目的と核心を体現している。実践記録『峠を越えて』に集録された「授業記録」「主題設定の理由」を読めば、人間のすばらしさと可能性を実感させられる。勇気と信念の大切さを教えられる。
<自分以下を求める心>という生徒作文を教材にした授業がある。初めて目にしたのは、『峠を越えて』(徳島県板野中学校)という同和教育の実践集である。
人間は、生きていく中で、自分より劣った存在を見つけては安心する。人と比べて何を持っているか、何ができるかで自分を支えている。
人間は差別することがよくないと知っていても、その心の中には<自分以下を求める心>を持って生きている。自分以下を求めないと生きられない、その愚かな心によって生かされてきた。
卑屈な、自信のない、常に他者と比べて少しの上位な、ささやかな優越感で自分を支える。
世の中の大多数の人間がそう思っているのではないだろうか。そして、自分は「差別なんかしていない」と思っているはずだ。しかし、世の中には「差別はある」「差別をしている人間はいる」と思ってもいるはずだ。この矛盾に気づかずに、人は生きている。
ほんの少し目線を変えてみればわかる。私が差別をするかしないかの問題ではなく、社会に存在する差別をどうすれば解決できるか、解決することが目的なのだと。
「差別」という重い言葉ではなく、<自分以下を求める心>が心の片隅に眠ってはいないかを問い続けることだ。
「森口健司氏の同和教育、板野中学校の全体学習はすばらしい。でも、それを私が、私の学校で実践するのはむずかしい」と、どれほど聞いてきたか。そして必ずその後に「他の先生が~」が続く。私自身、幾人かの同僚から「思いを語る授業なんて…」「思いを語る指導案を書いてくれ」と露骨に言われたことがある。変われる教師ばかりではない。
しかし、彼らの実践が無意味だとは決して思っていない。たとえ、まちがった部落史像を教えていようとも、「差別はいけない」の1点がある限りにおいて否定はしない。従来どおりの誰かの指導案と教材で部落問題学習を行っても、マニュアルやパターンどおりの部落問題学習であっても、彼らが同和教育・人権教育を行うことで、何人かの生徒が気づいてくれたかもしれない。ゼロには決してならない。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。