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”それぞれ”を超えていけるかー広石コラムVol.15

コロナの感染拡大で毎日新規感染者の人数にドキドキしてしまいますが、ニュースで「自粛してください」や、「各自の判断で」といった指示が聞こえてくる度、「各自」って最も難しくないか?と思いながらテレビを見ています。一定の判断基準はあるものの、各自と決めた人たちの想定内の感覚の人がどのくらいいるのか。それって、やってみなきゃわからない。今回のコラムタイトルのそれぞれで感染拡大のこの時期を乗り越えられるのか。。と不安な人もたくさんいるだろうなという思いからこのコラムを紹介させていただきます。(事務局新村)
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「今の学生の特徴はありますか?」と質問されることがあります。
この10年で変ったことはたくさんありますが、最も変化したのは情報への姿勢です。今は、すぐに検索ができる時代です。授業で紹介した事例などは、興味があれば、すぐにスマホで検索できます。質問したら答えるまでの間に検索もできます。情報なら、いくらでもある時代の中で、授業の役割も変化しています。そこで、今年の大学の授業では、学生たちの議論の時間をなるべく多くとっています。中でも、自分達自身の活動を検証する議論は、学生たちの生の声が出て興味深いものです。
その学生たちの議論でも、社会人の議論でも気になるのが「それぞれ」を答にすることが、よく見られることです。

違う意見や対立がある時、複数の関係者が関わる時、「それぞれの考え方で???」というのを結論とする考え方を、少なからず見かけます。確かに、無理して一つにならなくてもいい場面も多いのですが、「それぞれ」という結論が、「そうしておけば、面倒じゃないから」という理由でなら、注意が必要です。
これを、ボストンコンサルティングのイヴ・モリュー氏はTEDトークの中で、「チャンネル争いに、2つのテレビを置く解決法」と呼んでいます。多くの組織で、社員が違うものを見たがり、その結果、それぞれのテレビ(ゴール)を設置する。その結果、組織内の協力が弱まるのが、生産性低下の大きな要因だというのです。
「それぞれ」は、一見、相手を認めているようで、自分と他人の間に線を引く思考です。「それぞれ」だと面倒が減るのは、相手との相互作用を避けることができるからです。
これを、異文化理解の研究者ミルトン・ベネットは「最小化」と呼びました。異文化に出会うと、先ず「違和感・拒否感」があり、その後、反発か同化を経て「最小化」になる。自分を変えたくないがゆえに、自分とは違う意見を否定せず、それぞれと考える段階です。
最小化を超えて、異文化の受容に行くには、相手の存在を通して自分の正しさを再検証し、相手のいいところを認め、自分が絶対ではないと納得する自文化の相対化が不可欠です。
「それぞれ」は一見、他者を受け容れているようで、自文化中心は動かさないので、そこから協力は生まれないのです。
この一年を振り返ると、世界でも国内でも色々なところで「それぞれ」が起きています。自分の正しさを主張し、自分の考えを他者によって検証しない。相手の考えは相手の考えでしかなくスルーし、「自分たちはこうだ」と頑なに主張する。どんどんと内側に目を向けて、相手が何を言おうが、世界の流れがどうだろうが、「これでいいじゃないか」「自分たちはちゃんとしている」と居座り、自らを検証しない。
2つのテレビは「自分たちのテレビに自分の観たいものだけ観る」という状況を作ります。しかし、同じ時間に、別のテレビでは自分とは違う、自分には不都合なものが流れています。それを無視するか、自らを検証する機会とし、他者と協力してより先に行くのか。
2018年は「それぞれ」を超える対話の広がる年になってほしいと思います。
そのために、自分たちのできることを行っていきたいと考えています。
ぜひ、一緒に取り組んでいきましょう!
                     エンパブリック代表 広石
                      (2017年12月28日記)

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私自身、このコラムを読むまで「それぞれ」という言葉にマイナスのイメージはなく、自由にいろんな人とつながって受け入れるみたいなプラスのイメージがあったのですが、このコラムを読んでそれぞれって何か冷たい部分あるなーとか、徹底的に話したらわかり合えることも、それぞれにして済ませてしまったら、わかり合えないまますれ違ってしまうこともあるなと思いました。こんな状況だからこそ、違う考えの人とわかり合う努力をしながら乗り越えていきたいですね。(新村)

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