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某先生や、偉人、リーダー、インフルエンサー、カリスマ、どのように形容したらいいのかはわからないのだけれど、世の中にそのような存在がいる。
いつもそのような人の話を聞き、参考にしたり、自分のあり方を見直してみたり、感じたり。
そういった人のコミュニティに参加したり、その存在のもとに通ったり、お金を出したりする・・
そうしているうちに、そのリーダーやコミュニティの言うことをまるきり鵜呑みにしたり、思ったことを口に出せないまま場に合わせてみたりする。
あるいは、「違う!」と、極端に反応したりする。

違って当たり前なのにもかかわらず、その群れから外れることへの恐怖から同調圧力に屈したり、あるいは逆に違いを声高に強調し、「もっと自分を理解してくれるコミュニティがあるはず」とやっきになって探そうとする。次こそは「まるきり自分と同じ価値観、自分の価値観を肯定してくれる救世主の存在」を探そう、と。あるいはコミュニティにいる「私達と違う人」を追い出そうとする。

私達は、誰かに「あなたは正解です」と言ってもらいたがっている。
子供のころのように。先生や、親が、「大丈夫、正解です」と言ってくれたあのころのように。
子供のころから「答えは一つ」と洗脳されてきたからかもしれない。

自分や他人をカテゴライズする。レッテルを貼る。そうして仲間、敵を判断している。しかし、それすら幻想なのにも気づかない。
仲間だと思っていたら、まるで違っていた。
敵だと思っていたら、まるで違っていた。

分かりやすいレッテルで、他人や自分をジャッジするとき、盲目になっている自分に気づかない。
こころを平たくして、自分は不完全であることを知って、愛情を持っている時にしか、何に対してもジャッジはできない。

群れ、この文字を「君」と「羊」に分けてみる。「君」とは国などを治める人のこと・・年長者や敬う人に対して使うもの・・「羊」がそれにくっ付いている。
「群れ」
私たちは自分自身以外に答え合わせを求め「外にしか救いがない」と思い、不安を解消したいと「君」の元で、自分と同じ「はずの」誰かとつるむことで、弱い「羊」になるのではないか。
そのように幼いころから正しい誰か、認めてくれる誰かを探し、自分を肯定するように、洗脳され、利用されてきたのではないか。

集うことがおかしいのではない・・集っても「みんな、本当はそれぞれ違うんだ」「違ってもいいんだ、この人はこうなんだ」と理解する。
人と離れて孤独を感じる時も「人はみんな等しく孤独なんだ」と理解する・・・そこでやっと、群れるのではなく「集う」になるのではないか。
矛盾するようであるが「自分のことを信じる」「自分の現時点でのありのままを素直に受け止める」ことが一番大切なのではないかと、最近思う。

ジョン・レノンの「God」という曲がある。
Idon't believe ~と、世の中で「すばらしい」と称賛されているものを、「信じない」というフレーズが続く。
そして、フレーズの最後、Ijust believe in me
と続く。夢は終わったんだ、と曲の最後で語られる。夢を見ていたんだと。

昨今話題の、藤井風の「grace」という曲の一節には
あたしに会えて良かった やっと自由になった
とある。


私達は、発信することが当たり前になった世の中で、当然「黙る権利」というものがあることにそろそろ気付いた方がいいのかもしれない。

誰にも伝わらないことがある。誰にも見せない内に秘めるものがいつもある。今伝えなくてもいいことがある。誰に分かってもらえなくても、自分が自分をわかっていればそれでいい。

何となく、今、感じていることを書いてみた。

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