日記とアウトプットの違い 4月20日(土)朝日記
昨日、友達に「なおやんは最近いっぱいアウトプットしてるな〜」と言われた。
毎日日記を更新しているのを見てそう思ったらしい。
私も「そうやな〜」と返したけど、時間が経ってふと、私の日記ってアウトプットなのか?と違和感を感じた。
私の解釈するアウトプットって、ただ情報をたれながすというよりか、誰かに伝わるように発信する意味も込められているのだけど、けっこう自分だけが納得すればいいなぁという気持ちで書いていたりする。
また、裏テーマとして「無意識の有意識化」を掲げていて、何か新しいことを発信したいというより、自分の中にあるモヤモヤを整理して目視したい、という気持ちが強い。
だから、アウトプットというより、もっと手前の言語化をひたすらやっているような感覚だ。
そのおかげか、最近仕事での文章作りや会話が、こころなしかレベルアップした気がする。
その理由は、自分の中の無意識を有意識化する練習をしたおかげで、他人の中にある無意識の有意識化もできるようになってきたからだと思う。
他人が意識して発した言葉を捕まえるのはもちろん、「ってことはこういうことも考えてませんか?」と無意識にまで手が伸ばせるようになってきたのだ。
でもこれをやりすぎるのは危険で、言語化を過大評価してはいけない。
言葉にした途端にイメージがずれたり、全く違うものになってしまう感覚というものもある。
ふわふわしたものは、ふわふわした感覚それ自体を大事にしておいた方がいいこともある。
無意識が液体だとすると、ぷくーっと膨らんでできたシャボン玉が有意識。
ぼーっとしてると割れて消えてしまうので、剥製にして保存する。
無意識の有意識化のことを、仮に「シャボン玉の剥製をつくる」と呼ぶことにしてみる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?