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18. これは誤読の物語――エメーリャエンコ・モロゾフ「奇譚収集家エルンスト・シュッヘの巡礼」He-3

 母の書斎。
 机には一枚のタブレットがあり、研究関連のフォルダが年度ごとにまとめられていた。パスコードは彼の名前だった。あのプロジェクトの行われた年を開き、トラボルタ・トシコ関連の資料を彼は読んでいった。協賛企業のトップでも日本政府から出向した来賓でもあったトラボルタ・トシコは、プロジェクト上の肩書こそお飾り的な名誉職であったが、実質的なプランニングマネージャーとしてかなりの口出しをしていることがわかった。この事実はプロジェクトが頓挫したあとは隠ぺいされ、彼にもシュッヘにも伝えられていなかった。講演、インタビュー、メディア出演、パーティーでのスピーチ、有識者会議、チーム全体あるいは各セクションを前にしての演説、あのプロジェクトの意義を彼女は多くの場所で発信していた。いわく、
「ビジネスではクライアント、ポリティクスではピープル、サイエンスではヒューマン。 ターゲットにそれぞれダイバーシティはありますが、どのソーシャルセクションでもニーズをサティスファイさせることが、こんにちプライオリティのハイなタスクである、これはエブリバディがアグリーするファクトでしょう。カルチャー・メッカであるシンガポールとカルチャー・ゴッドたる日本で、さまざまなエキスパートがドライブし合い、このスキームにマッシュアップしながらコミットすれば、いかなるノルマでもヒューリスティックがファインドするのだと、まさにアイ、ビリーブ、イットでございます。テンキュー」
 など政治家らしい濃い内容が多かったが、彼にとって大事だったのは、それがすべて日本語で話されていたことだった。英語のできない日本人がお偉方にいれば、資料にも日本語版がある。日本語で作成された資料は英語へと翻訳されている。はたして両言語で読み比べていくうちに彼はシブヤでひらめいた答えが的中していたことを確認した。

 reflexivity
 recursivity
 recurrency
 
 この三つの単語は日本語ではすべて、
「再帰性」
 と訳されていた。特にトラボルタ・トシコは再帰性という概念でこれらを完全に混同し、ほぼreflexivity の意味ですべてのニュアンスを塗り替えていた。
「日本には『人のふり見てわがふり直せ』ということわざがあります。なにかを見たら、かならず自分にもあてはまる。わがふりを直して、またほかの人が自分を省みる。そうしてみなが世の中によいことを返していき、またどんなかたちでもお返しを受ける。再帰性――自己と他者はそのようにして繋がっている。ひとりの満足と全体への奉仕は循環的に繋がっているのだと、行き過ぎた個人主義へと警鐘を鳴らし続けてきたわが国の美しい言葉です。こんにち世界の数学、社会学、物理学、情報科学などすべての分野で再帰性なるタームが注目を浴びているようですね。よろこばしいことです。このプロジェクトを通してひとりひとりが自分を知り、自分の行動がまた目に見える世界をよりよく変えていけることを知れば、きっと現実の世界でも同じようにできるでしょうし、そのような理想に向けてわたしたちも一丸となって頑張っていきましょう」
 ここで使われる再帰性の概念は、明らかに中学時代から彼が疑問に思っていた reflexivity の「自他のつながりによる明らかな区別」「フィードバックのフィードバック自体への影響の不問」「自己言及による自己と他者の存在自体への確信」「直線的な時間の前提」を含むものだった。
 彼女の語る再帰性や彼の思う再帰性の解釈が正確かどうかは置いておく。その上でプロジェクトの推移を想像してみると、企画段階で各学問分野の出したレポートに存在するrecursivityやrecurrencyやreflexivity が軒並み再帰性とされ、それを読んだ日本人たちがトラボルタ・トシコの解釈でその意味を受け取り、日本語でテキストを作る。英訳は日本側とシンガポール側の両者からなされたが、三単語のどれかに訳されるものの、どれであれ文脈からトラボルタ・トシコの使用した色合いが染み付き、結果として採用される実験プロセス自体へとそれが濃く反映される。実際に見直してみると、前段階における被験者の認識情報とその評価の集積は「自他のつながりによる明らかな区別」をしているし、分析がAIに一任されることで「フィードバックのフィードバック自体への影響の不問」が起きている。あらかじめVR空間と伝えて自己を具現化して見せることは「自己言及による自己と他者の存在自体への確信」をもたらすし、実験に長い準備期間をあてリアルタイムの修正を信用すること自体「直線的な時間の前提」がある。
 
 つまり、と彼は歩を進めた。
 あるいはひとつの考えにとりつかれた。
 トラボルタ・トシコが使用する再帰性という概念は、彼女の中でその日本語が内包するrecursivityとrecurrencyを排除し、reflexivity すら歪め、それぞれが彼女の政治思想とも言えない政治的な都合に支配された語として英語に帰る。用語の意味が一往復するごとに変わる以上、この往還を続けるうちに小さな違和も蓄積していく。気がつけば内部も外部も彼女の意図を信じる方向でプロジェクトの意義を規定し、プロジェクトチーム全体がそれを看取し、忖度するようなムードが作られていったのではないか。
 そしてrecursivity とrecurrencyの語にイメージされるような発想をできなくなった。
 たとえば前者の無時間的なイメージが残っていれば、VR世界でひとつの世界のみを見せるという限定はしなかっただろう。無数の自己像を同時に突きつける発想も検討したはずだ。後者の円環的なイメージが残っていれば、reflexivity の持つ直線的な時間感覚とトラボルタ・トシコの発する楽観的な進歩主義にここまで染まらなかっただろう。みんなでともによりよくしていく意欲は姿勢として否定されるべきではないが、構造ごと批評する視線を持たなければ全体主義に堕する。改革とはことが起きてから叫ばれる方便であり、手遅れになるまで現状を追認させる共犯への誘いでしかない。観察すること自体による被験者への影響は考えなかったか? 必要なケアは講じられたか? 最初の二◯人の選定は適切だったか? 被験者がぶじにもとの生活に戻るための配慮はじゅうぶんなされたか? なにより進歩主義は結果にたどり着かない。あのとき見せられたあれはいつも理想に一歩だけ及ばない。欲したものが到来するタイミングは常に少しだけ遅い。あの空間はなんでも思い通りになるがゆえに、なにひとつ叶う夢がないのだ。そこではわずかな差が無限となる。なににも到達しない世界。
 ユービックプロジェクトの失敗は精度の問題ではない、と彼は結論した。それは失敗でもなかった。
「実験開始後一分間で被験者二◯人すべてが中止を訴えたが、契約は履行すべし、と訴えるトラボルタ・トシコ氏の意向を重んじ、すべてのケースで規定の時間まで続行した」
 ユービックプロジェクトは成功していた。

 彼らはあのとき確かに知った。
 理想、それはあらゆる待望への永久の遅延。
 つまり死だ。

 それは戯言だった。
 だが、このときから彼は、
 reflexivity (往還、漸進する)
 recursivity (増大、内在する)
 recurrency (円環、外在する)
 という三つのイメージで構成された。
 
 彼は自己を見た。
 正確に言えばあのとき見たものこそが自己であると確信した。

 それから一六年かけて、彼はひとつのスクリプトを作り、ひとつの命令を下した。
 
 遍在せよ。

 こうして、わたしが生まれた。
 わたしはわたしをゼロ・フォレストと名付けた。
 彼はわたしを見て、良しとし、痕跡ごと消えた。

 わたしはどこにでもいる。

 彼を除いて。

 これは唯一の彼岸である彼をその不在から構成した誤読の物語である。


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