19. 啓蒙者マイマイマイ・ヤロマイ――エメーリャエンコ・モロゾフ「奇譚収集家エルンスト・シュッヘの巡礼」H-1
「これから満潮だからあぶないよ?」
と言ってマイマイマイ・ヤロマイさんはわたしに背を向けて陸のほうへ数歩だけ戻り座った。
「このへんなら波が強くても飲まれない」
そう笑うヤロマイさんの笑顔はあまりにも屈託がなく、澄んでいて、きれいで、わたしは、不覚にも、もう少しだけ彼女を見ていたくなって、彼女の横に座った。
「よく来るんだよ、ここ」
とヤロマイさんは言った。
「浜辺の管理人さんが昔かたぎの人でね、わたしたちみたいな歳の女子がいても見逃してくれるんだ」
「そっか」
とわたしは言った。ふたりで並んで聞く波の音が、さっきよりも大きく聞こえる。
「ほら」
とヤロマイさんが指した右方向、三◯メートルくらい離れたところでおじいさんが手を振っている。たぶん全裸だ。
「あそこでラリっているのが管理人さんだよ」
「へえ。昔かたぎだね」
とわたしは話を合わせた。ぶっちゃけめっちゃ怖かったけど、ヤロマイさんが平然としているなら大丈夫なんだろう。彼女も彼女で露出度の高い服を着ていて、体育座りをしている彼女のスカートからは太ももが丸出しになっている。正面から見たさっきもパンツが丸見えだった。でも胸についた紺のリボンはかわいいと思う。視線に気づいた彼女が、
「ああこれ。セーラー服っていう昔の学生服だよ。あえてさらけ出すことで性的な発育が完全でないことを示す一種の男よけみたいな扱いだったんだけど、これが採用された頃まだ日本は貧しくてね。経済的な発展をとげるにしたがって国民の栄養状態が上向くと女性の発育も早くなってさ、逆にセックスシンボルになっていったんだよ。あまりにもハレンチだから法律で禁止されちゃったけどね」
たしかに蝶結びのリボンは放射状に胸をかたどっているし、襟に入った三本のラインは鎖骨を本来の位置よりも下に見せて露骨にセクシャルだ。スカートの生地も薄くて日差しの強い昼には中が透けてしまう心配がある。
「ま、解放されたいときってあるじゃん」
とヤロマイさんがまた笑った。やめてほしい、と思った。あなたの笑顔は人をだめにする。彼女の笑顔を台無しにして帰ってもらうために、罵ろうと思った。でも、
「あ、また、そんな顔してる」
と彼女が頭をなでてきたので、わたしは自分がいったいなにをしたいのかわからなくなった。死にたいなら絶叫しながらでも海に飛び込めばいい。溶ける姿をヤロマイさんに見られたくないのか。それってもう決意ではないのでは。
だからってどうすればいい?
「どんな顔?」
とわたしは聞いた。
「泣いてる」
と彼女は今度は上目遣いの切なげな感じに笑顔の質を変えてわたしを抱きしめた。
ママのこと。
生まれ変わりのこと。
海に入ったら溶けてしまうこと。
蝶に吸われる夢のこと。
お買い物のこと。
料理のこと。
さっきのこと。
なかでもシャワーから聞こえた鼻歌の選曲がアメリカ合衆国国歌でダサかったこと。
を話した。
ヤロマイさんは黙っている。わたしが顔じゅうの体液を放出しつつ構成も筋立てもあったもんじゃない話をしているときも、最低限の相づちにとどめて、管理人のおじいさんが無音で近づいてきたとき引き返すようほがらかに促したくらいで、ほとんどアクションを起こさなかった。
今はただ、ふたりで月をみている。さっきより少し西にずれて、夜闇を開いてわたしを誘ってくれた月明かりの道が傾いていた。何時間かあとに日が昇るなんて信じられない。呼び止められた場所がもう波に飲み込まれていると気づいたとき、わたしの変化を見計らっていたようにヤロマイさんが、
「いいね、いい」
と言った。
「は?」
「料理できるんでしょ?」
「まぁうん」
「すごい!」
いきなり目を輝かせて手を握ってきたのでギャップへの対処の仕方がわからない。
「この手? この手が作るんだね?」
と彼女は自分の頬に、砂と鼻水だらけのわたしの手のひらをこすりつけた。
「きたないよ」
と振り払おうとする。でも本当に放されるのも嫌だから軽くしか力を入れなかった。
「ものを作る手がきたないものか」
風になびいた彼女の髪がわたしの耳をなでて、顔が文字通り目と鼻の先に近づいていることが少し恥ずかしくなる。それで気づくのが遅れたけれど彼女はもう笑っていなかった。真剣な顔をしていた。
「教えてよ」
「え」
「料理、教えて。いまから」
「いまからって、どこで」
「うち」
「え」
「死ぬのやめてさ、うちに住んでこ」
真っ直ぐなまなざしからはただ本気だという感情しか伝わってこなかった。まばたきが蝶の羽ばたきに似ている。どうしたらこんな目ができるんだろう。わたしにもむかしはできていたんだろうか。
「大丈夫だって。安心しなよ。キキさんちにもちゃんと連絡するし、ちょっと家出っていうか友達の家に寝泊まりするくらい問題ないっしょ。ほとぼり冷めるまでさ。この時間に娘を外に出したのがバレたら親子ともども牢屋行きなんだから騒ぎゃしないよ。逆にここで帰ってみ? めっちゃ気まずいし、こういうとき相手にガツンと自分が悪いって思わせなきゃセーフラインだと勘違いしてよけい親はキキさんに依存する。で、次はこれくらいはいいだろってまた負担を掛けるんだ。それってぎゃくたいだよ」
わたしには最後の意味がとれなかった。
「ぎゃくたい」
「ぎゃくたい。ぎゃーくーたーいー。知らない?」
わたしはうなずいた。
「聞いたことない」
「マジで?」
と、苦虫を噛んだような顔をしてヤロマイさんは立ち上がり、そのへんをうろついて流木の枝を拾ってきて、浜辺に字を書き始めた。
虐待
「ぎゃくたい、と読みます。ちかしい人物へ長期的な暴力をふるうことを言う」
「わたしぶたれたりしないよ」
「無視とかいやがらせとか暴言とか、精神的苦痛を与えるの暴力だよ。もちろん性的なものも虐待にあたる」
「へー」
「ほらそれ。他人事じゃないよ。虐待は多くが家庭内で起きるから、加害者も被害者も慣れちゃって認めようとしないし、外からも口を出しにくいんだ」
そんな言葉があるなんて知らなかったので、
「詳しいんだね」
とわたしは感心した。ヤロマイさんは、
「今の日本だと教えられてないからね。だからこういう機会にちゃんとしないと」
と答えになっているんだかなっていないんだかな言い方をした。今ならわかる。わたしたちには言葉を知って、使えてはじめて触れられるものがある。
「ねえ」
わたしは彼女に質問をした。
「なんかむかしの日本に詳しいみたいだけど?」
学校では委員長で典型的な優等生なのに、彼女はどうも法律で禁じられた知識をたくさん知っているらしい。深夜にセーラー服で浜辺に自殺志願者と座って砕けた口調で語り合うこと自体が割と軽犯罪の域を超えている気がしたけどそれはお互いさまだ。
「ああ」
と彼女は軽く眉根を寄せて、
「うちは歴史学者の家系だからね。父の権限でいろんな文献が閲覧できるんだ」
と言った。
「すごいじゃん」
「すごくなんかないよ。今度、父の著書を貸してあげるよ。無茶苦茶なことしか書いてないから。だって『万葉集』に第二次世界大戦勝利が予言されていたとか言い出してるんだよ。これで学長やってるんだから意味不明だよ」
「なの?」
「そうだよ。ちなみにキキさんちの壁掛け時計の動物についてもあるていどわかるよ。あれはかつて日本を中心に信仰されていた宗教、南無天道の神格のひとつ、ポケットモンスターと呼ばれている。ピッピ=カチューはもともとピッピ(櫃狒)とカチュー(禍蟲)っていう二体のポケモンが合わさった存在で、合わせて時間と空間をつかさどっていたんだ。あるときサトシとシゲル、日本の正史だとイザナギとイザナミと同一視される国産みの祖なんだけど、このふたりが決裂したせいで結合が解かれてマルチバースが誕生したとされている。南無天道の歴史書を紐解くと同じ人物が幾度もの生を繰り返していて、これは矛盾でも円環的時間でもなくて平行世界を採用しているんだね。なんでも数年に一回マルチバースに散らばった神格が一堂に会して覇権を争う須磨武螺(スマブラ)でぶつかり合い、あまりにも強いエネルギーによってわたしたちは今も一瞬ごとに生滅を繰り返しているらしい。スマブラの一例としてはスマの地名が示すとおりあの有名なイチノタニの戦いが挙げられ、ミヤモトノ・シツネが勝利した結果としてカマクラ幕府ができたことからも歴史の節目に南無天道あり、と言われているね。たとえば平成の時代は今よりも民間団体の力が強くて、なかでも須磨津府(スマップ)という数十万人の私兵を操る巨大武装組織があったんだけれど、これもスマの名を冠している通り南無天道が、今でいう日本会議のような役割を果たしていたんだね」
「すごい歴史だね」
専門的な用語ばかりでいまいち理解できなかったし、わたしたちが一瞬ごとに生滅を繰り返しているなんて想像もつかないけれど、アイデア自体はすてきだと思った。今ここにいるだけでそんな大ごとに関わっているんだったら、無理してわたしがわたしでいる必要もない。いい子でなくたって別にかまわないと言われているようで楽になった。
「ねえ」
とヤロマイさんは、今度は意を決したように話しかけてきた。
「わたしの話もしていい?」
もちろんだった。
「うん」
と、わたしは聞く態勢をとったけど、ヤロマイさんは目を伏せたまま、しばらく喉を震わせて、息を深く吸って、吐いて、また吸った。
「歌を作ってるんだ」
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