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17. Reflexivity, Recursivity, Recurrency――エメーリャエンコ・モロゾフ「奇譚収集家エルンスト・シュッヘの巡礼」He-2

 シュッヘはトキョ大学理学部へ、彼はシンガポール国立大学人文社会学部へと進学した。アジアに冠たるコンピューティング学部とも迷ったが、ナイアーラトテップ事件で自らの関心がコンピュータではなく人間にあることが引っかかっていたし、本身を入れて日本語の勉強がしたいのも動機としてはあった。日本嫌いの母は半狂乱になって反対したが、彼が彼女へ同調し言葉を先取りし感情を全面的に肯定して結論だけはごまかし続けることで許諾を得た。ただ、母はそれが原因だったのかうつ病を患い、つとめていた研究所を休職し書斎へ閉じこもるようになった。もともと家を空けることの多かった彼女との会話はほぼなくなってしまった。

 入学して間もないある日、大学構内のレストランでパスタを食べていると、
「失敬」
 向かいの席に男が座り、手にしていたタイガービールをぐびりと飲んで一息をついた。
「席がここしかなかったものでね」
「そうですか」
 そして三島由紀夫の『近代能楽集』日英対訳版が皿の横に置いてあるのを見て、
「くだらない」
 と日本語でつぶやいた。
「日本人なんですか」
 と彼が日本語で言うと男は目を丸くした。
「おや。そうだよ。留学生。工学部二年のハルカワ・ホウジョウ。あんたは」
 彼は名乗った。ホウジョウは、
「おもしろい名前だな。実はこっち来るとき単位認定手続きのミスで物理学入門なんてシャバいコマを入れるはめになってさ、酒でも飲まないとやってらんないよ。毎週来るから気が向いたらまた会おう」
 と一気にまくしたてビールを飲み干し出ていった。彼には「シャバい」という日本語がわからなかったが、暇だったのでホウジョウを尾行して物理学入門の講義に潜り込み、ポアンカレの回帰定理について聞いた。力学系、つまり一定の規則に従って時間の経過とともに状態が変化するシステムにおいて、ある条件が満たされればその任意の初期状態に有限時間内に回帰し、それがいくらでも繰り返される。つまり時間のほぼループ状態ができあがる。彼にとって重要だったのはポアンカレの回帰定理の理解ではなく、そこでrecurrencyという単語が使用されていたことだった。recursivityではなかったのだ。同じ言葉ではない以上、彼個人の中では意味の区別が生じる。

 recursivity 無限の空間が無時間的かつ自己言及的に存在する。
 recurrency 有限だが同一の空間に戻ることで時間が循環する。

 前者においては自己言及をする無限の内部のどこかに、観察する主体が存在し、後者においては存在しないか外部にいる、という感じが、彼にとってはした。そしてこのふたつの言葉は 彼のなかでreflexivityと隣接することになった。

 reflexivity 自己と他者の往還によって互いの再構成と変化を触発する。

 大学二年生の八月、母が死んだ。乳がんで、七月に倒れたときには末期だった。母は最後にありがとうと言った。葬儀ではじめて参列者に聞いたのだが、彼の高校時代、彼女は熔融塩炉式の原子力発電所開発計画に合わせ、技術士採用の適正検査をする際のガイドライン作成に携わっており、リスクテイキング行動分析のためにフィールドワークとして各国の原子力発電所へでかけていたらしい。フクイチには何度も行っている。被爆していたのかはわからない。どちらにせよがんの発見が遅れた原因は仕事を休んでいらい健康診断を受けていないことにあるようだった。
 例のプロジェクトメンバーも何人か来て、彼の成長をたたえて悲しみを紛らわせた。ひさしぶりに話をしてみると、来てくれたメンバーの全員が母と同じように死亡事件への責任を感じていることがわかった。
 彼は母の書斎へ立ち入らず、そのままにしておいた。
 遺産の整理を終え生命保険が降りるなど身辺が落ち着くと、しばらく生きていくだけの金が残った。彼はかねてより行きたかった日本へと飛んだ。

 カゴシマに降りてアイランド・サクラの灰を浴び、クマモトではマウント・アソの灰を浴び、オオイタはベップで温泉を堪能した。母が日本で唯一といっていいほど褒めていたナガサキの平和公園に行った。平和祈念像の天に高く掲げられた右手と水平に伸ばした左手には巨大な日章旗が結ばれており、その日は風が強かったのでよくはためいていた。ハカタのナカスで飲んでいると隣に座ってきたショートボブの女にうっかりホテルの部屋番号を漏らしてしまい、その夜に押しかけられて一緒に寝た。そのまま三日三晩その部屋で過ごしたあと、トキョにいるシュッへと会う時間が近づいていることを伝えたらいっしょに行くと主張したので受け入れた。だが、いざホテルを出る段になると女は彼を一方的に罵って去った。
 予定が遅れチューゴク・カンサイ観光は諦めなければならなかったが、ドーム・ゲンバクだけは見ておきたかったのでヒロシマでリニア(核融合ではない)を降りた。ドームは三年前に震度六強の地震に見舞われ倒壊し瓦礫の山になったまま放置されていた。ハチマキを巻いた老人が何人か「ドームのがれき撤去、反対!」とデモをしていたので話を聞くと、修復どころか更地にして新しく原子力記念館を建設する計画が政府にはあるらしい。彼は募金ボックスにクレジットを投入した。
 ふたたびリニアに乗ると車内放送でナゴヤには停車しないとのアナウンスがあった。ズー・ヒガシヤマで生体実験中に脱走したナナチャンという複数のサイボーグコアラが市内に三つ存在する観覧車を振り回しているとのこと。通過する際は夜になっていたので窓からは街のところどころで炎があがっているのが見えた。隣に座っていたおじさんが、
「いつものことなんですよ」
 とさもいつもそう言っていそうな顔で語りかけてきたので、
「いつものことなんですね」
 と彼は言った。
「カワムラ市長がこれこそ真の芸術だって言うんだ」
 とおじさんは言った。
「長生きですね」

 翌日、シブヤのドッグ・ハチコー像前でシュッへの顔は一◯年近くぶりだったがすぐにわかった。お互いに抱き合い再会を祝すと母の葬儀に欠席したことを詫びられ、そのときになってはじめて彼はシュッへの祖父が亡くなったときにただ慰めをテキストで送っただけだったのを思い出した。スロープ・ミヤマスを途中で折れた路地にあるレトロな喫茶店へ二人は入った。彼はナイアーラトテップのことは黙っていたし、シュッへの頭の中にもすでにないようだった。
 出会ってみるとお互いを結びつけているのはあのプロジェクトだけなのが色濃くにおうような気がし、次第に会話もそちらのほうに転がっていった。シュッヘはすでにあのプロジェクトの統括責任者にあたる人間にコンタクトをとり、実験の全容を知り、改良のアイデアを練っていた。

 脳波と神経伝達物質のより正確な関係とリアルタイムでの測定・算出案。
 カメラ内蔵コンタクトレンズの量産計画とバッテリー持続時間における改良案。
 ヘッドギアが人間の生活に与えるストレスの研究と小型化へ向けた設計図。
 モーションキャプチャースーツを人工筋肉に変えてリアルな皮膚感覚を実現する素案。
 MRIテストやAIへのフィードバック回数を増やし、より精緻なリアクションを実現するためのスケジューリング。
 その他さまざまな計画をシュッヘは示し続けたが、そのどれもがあのプロジェクトの欠点を糾弾するものだった。
「一◯年前はきっと技術が足りなかった。それならその技術を理念に追いつかせて、課題を乗り越えることがぼくの使命だ。生き残ったからには死んだ人の命を無駄にしちゃいけないと思うんだ」
 シュッへの熱っぽい語り口をうっとりと楽しみながら、本当にそうだろうか、と彼は思った。
 すると不思議なことが起こった。話を聞くうちにシュッヘが次になにを持ち出すか、それがどんな内容でどういった狙いがあるかが予測できるようになったのだ。
 きみならここを指摘し、こういう改善案を練るだろう。
 即座に概念化できないので会話にはならないのだが、後追いしてくるシュッへの言葉はすべて彼の予感を肯定し、裏付けるものだった。AIの話題にいたっては彼の思い浮かべたコードと同じものがそのまま資料として出てくる。どういう現象なのかわからなかったが、話の腰を折りたくはなかったので彼は話を聞き続けた。

 プレゼンがすべて終わる頃には夜になっていた。シュッへはシュッヘでこんなことを存分に話せる相手がいなかったのだろう、上気した顔が満足そうだった。
「これから飲みがあるんだけど来てくれないか? ト大の友だちに紹介するよ」
「行こう」
 外は冷房のきいた室内より暖かかったが、シンガポールに比べて日中や内外の寒暖差が大きく、風邪をひく予感がした。
 ハチコー像に戻って集まりつつあるシュッへの友人へと挨拶を交わしながら、人ごみの中で彼はスクランブル交差点対岸の巨大ビルスクリーンを眺めていた。この秋にはじまるアニメ番組の宣伝だったが、とつぜん実写に変わり、中年の女が映し出された。
 トラボルタ・トシコ首相がワシントンで日米の友好関係を強調するスピーチを行った、とのニュース速報だった。抜粋が放映される。
「国家安全保障とは人間の安全保障と同義であるというのが日本の不動の信念です。わたしたちの時代にこそ、女性がもっと活躍し、労働をし、子を産み、輝く世の中を実現しなくてはいけません」
 日本語だった。
「ねぇ」
 と彼はシュッへの袖を引っ張って呼んだ。
「ん」
「日本の総理大臣って英語できないの?」
 トラボルタ・トシコは英語ができない。
 彼は答えを得た気がした。

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