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21. ゼロ・フォレストvsエルンスト・シュッヘ――エメーリャエンコ・モロゾフ「奇譚収集家エルンスト・シュッヘの巡礼」World-1

World

 もちろんわたしには見えている。
「おかしいとは思わなかったんですか?」
 とゼロは言った。碧眼に細い鼻、少し下膨れの頬に薄い唇。角張った肩から下は白のエナメルライダースーツで覆われていてボディラインがくっきりと浮き出ている。そしてこれが自分だという。顎を引き視線を真下に落とすと、エナメルに包まれた胸の膨らみがさえぎる。たしかに自分はゼロと同じ服を着ているようだ。どこかしらがスースーする。
「なにが」
 と答えようとした言葉がおどろきに途切れる。声が明らかに高くなり、男性の、慣れ親しんできた質ではなくなっていたからだ。
「アルファの開発者ではない、建築家としての昨今のエルンスト・シュッへの実績はあなたのものではありません。あなたの主観をなしていたエルンスト・シュッへによるものでも、スピリチュアルアプリケーションであるセイディーによるものではありません。あなたたちは建築などなにひとつしていない。ほとんどが、あなたの一部分に植え付けられたアルゴリズムが自動で集積した情報を、改ざんし、記憶媒体に上書きしたものです。いちから生成されたものもありますよ」
「どういうこと?」
 今度はちゃんとしゃべることができた。だれか、男の人の声が、信じてはいけない、と自分の中で必死に訴えているのがわかる。でも、わたしには、目の前のわたしの話す言葉が本当のような気がしてしまっている。
「ゼロ・フォレストのリリース直後からアルファのシェアが劇的に落ちていきましたが、この事態の本質に気づいていたのは、開発者であるエルンスト・シュッへだけでした。自分が担当した部分のアイデアがまるまるパクられていたからです。アイデアだけではありません。見れば見るほどゼロ・フォレストはアルファのソースコードを知っていないと書けない部分だらけなのです。アルファの開発チームは身内の裏切りを疑いました。が、シュッへだけは違った。彼と連絡が取れなくなったからです」
「彼」
 さきほど意識に流れ込んできた物語を思い出す。
「彼はどこにもいなかった。すべての記録が抹消されていた」
 ゼロ・フォレストの生みの親として名指されるほかない不在。
「シュッヘはシリコンバレーでアルファを開発しているときに、一度だけ彼を招待しています。数多くのアプリケーション開発によって偽名でも名を馳せていた彼は、シンガポール政府からの査察メンバーに選ばれていたのですね。シュッヘは再会を喜びました。そしてアメリカに渡ってはじめてできた恋人、同僚、恩人に彼を紹介してまわり、みなで食事も共にしました。そんなことを思い出しているうち、やっとピンときたんですよ。ナイアーラトテップのことにね」
 ゼロの背後から、まったく同じ姿の、クリス・セイディーとして名指された女がもうひとり出てきて口を開いた。
「シュッヘはナイアーラトテップを発表した企業からそのソースコードを買い取りました。自分の開発した旧バージョンと炎上しすぐに公開中止となった新バージョンを見比べ、一部を除いてそっくりなことに驚いたのです。こんなことができるのは彼しかいないと、シュッヘは考えました」
 今度は空からもうひとりクリス・セイディーが降りてきた。
「彼がゼロ・フォレストを開発するまでなにをしていたのか、それはわたしにもわかりませんが、人工言語分野の計量文体学を応用的に研究していたと考えるのが妥当でしょう。一◯年代、すでにコンパイルされたバイナリーコードからプログラマーを特定する研究が行われており、確率としても九六パーセントを記録していました。彼が行ったのはおそらく逆で、特定の個人から書かれるべきコードを導く研究でした。Aという人間がいたときに、その容姿、環境、発言や業績を取りまとめたデータをマイニングしていけば、やがて人間はコードへと置換される。発想としてはあり得る話だとは思いませんか。ナイアーラトテップと同じなのだから」
 次は、下から上へ大の字の姿勢で回転しながらゆっくりと移動するクリス・セイディーが現れた。
「シュッヘから見て、彼の作ったナイアーラトテップには一切の人間性が欠けていました。理想のアバターという幻想を追わせることで、この世のあらゆる記述を改変し、人殺しすら厭わなくなるようユーザーの構造と素子を冷徹に組み替える。ユービックプロジェクトで生存した必然性を追い求め利便性による人類の救済すら夢見ていたシュッへからは、彼は悲観も達観も皮肉も欲望も怨嗟も愉悦もなく、ただそれはそうなるものとして、生き死にへと導くブラックホールのように見えました。ゼロ・フォレストは人間をコード化し、フィードバックループによって強制的に書き換えて極限へと導く。ささいな幸福、希望、感情、主張、違和感。これら日常の泡の破裂を防いで膨らませ、身や心ごと内側から膨張させ続け、存在を巨大化する泡の虜に、ひいてはそれそのものにしてしまう。シュッヘは、ゼロ・フォレストを放置していると人類は滅びるだろう、と確信しました。シュッヘは彼と戦うことにした」
 上下左右の四方向に合わせ鏡があるかのように、無数のクリス・セイディーが出現し、そのすべてがこちらを向いている、と、おそらくただひとりだけ自分を彼女だと自覚していないセイディーは感じた。
 無数のクリス・セイディーのなかで自分を保っていられるのは、まだエルンスト・シュッヘがわたしのなかで生きているからだ、とセイディーは思った。はたから見ればマザー牧場のなかで自己同一性を求めて鳴く羊の一頭にすぎないとしても。
 彼女は話し始めた。
「しかし彼はいない。どこにもいない。ハルカワ・ホウジョウの足取りもつかめない。そこでシュッヘは、世界で最も彼のことを知っていたシュッヘは、彼の手法を模倣しました。つまり計量文体学を、彼と、シュッへ自身に応用したのです。シュッへの、彼についての記憶、彼が書いたコードについての記憶、声、身体、発言――彼の手がかりはなにひとつなく、彼自身のうちに残っていたすべての彼をかき集め、消去後に空白を作るよう一か所で再構成をしました。彼なら書くだろうコードを、彼自身であるコードを全力でシュッヘは再現したのです。つまり、それが消されたならゼロ・フォレストに空白の不在として感知されるであろう場所を作ったのです。ゼロ・フォレストは遍在しなければなりませんから、空白を埋めようとするでしょう。そのとき目指されるのは、ゼロ・フォレストが唯一持っていない彼の記憶の復元となります。語彙にない言葉は書けません。そこに正解はない。必ずエラーになります。だからゼロ・フォレストはやりなおすでしょう。永遠に。recursive call です。自己にないものを自己を参照して求め、また間違う。永遠にエラーを引き起こせば、いくら無限に近い演算能力を持つとはいえ、いつかはゼロ・フォレストはパンクするでしょう。もしくは該当箇所ごと消去して見なかったことにするかもしれません。しかしそれでは彼につながる契機を放棄することになり『遍在せよ』という命令に対し矛盾するでしょう。ゼロ・フォレストは、永久に正解へたどり着けずに間違い続けることでしか存在できなくなるのです。さていよいよゼロ・フォレストは世界を覆い尽くし、世界人類への定期的な接続義務が課される日になりました。この日に合わせてシュッヘは自身に計量文体学に応用し、アルファの内部にコード化した自分自身をコピーしていました。そして、そのプログラム人格をゼロ・フォレストへと投入しました」
「なんのために?」
 と正面のクリス・セイディーは言った。
「彼に会いに行くためです」 
「そのために?」
「ネット上の人格になったエルンスト・シュッヘは、ゼロ・フォレストに紛れ、自らのコードに適性のある人間へ自らをダウンロードさせていきました。そう、彼はスピリチュアルアプリケーションとなったのです。そして自分を取り込んだ人間のコードを内側から書き換え当人をスピリチュアルアプリケーションだと思わせることで乗っ取り、抑圧し、リアルタイムで情報と記憶を改ざんし続けることで彼は客観的にはもとの人格の人間として、主観的にはエルンスト・シュッへとして生きることができたのです。そんなことをしてもゼロ・フォレストにはいずれバレます。しかしバレるのが目的でした。ネット人格のエルンスト・シュッヘは次々とゼロ・フォレストと対面します。そして、ゼロ・フォレストが遍在AIであるくせいまだに創造主である彼だけを演算しきれていない事実をつきつけては、消去されていきました」
 とセイディーは言った。
「そのとおり。そして」
 とゼロは言った。

「わたしが最後のひとり」
「わたしはあなたに会いに来たのです」


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