14. The Star-Spangled Banner(星条旗)――エメーリャエンコ・モロゾフ「奇譚収集家エルンスト・シュッヘの巡礼」Hell-2
午後九時半。
窓際にかかった電波時計は文字盤に架空の動物が大きく描かれていて、日が変わるときに一回だけ鳴く。他に見たことがないくらいデフォルメされていて、立ち上がって片手を振っているから二足歩行だと思うんだけど、どういう名前なのかはわからない。カーテンを閉じる。お皿洗い。ママは職業がら肌にあんまり負担をかけられないからいつもわたしの仕事で、どのくらいの食器と汚れの量ならどのくらいの洗剤が必要かは考えなくてもわかる。
午後十時。
明日の予習。水素の原子は一個の陽子と一個の電子からできており、通常その中に中性子は存在しない。ただし水素には中性子を一個もつ重水素と中性子を二個持つ三重水素という放射性同位体があり、製造後の安定が容易な前者を主に水素爆弾へと用いる。水素核の融合には一億度の熱と空気圧の一◯◯◯億倍もの圧力が必要で、この状態を可能にするのが原子爆弾であり、核分裂には核融合ほどの熱も圧力も要らないので、まず核分裂で原子爆弾を爆発させ、その熱と圧力によって重水素が核融合を引き起こす。これが水素爆弾のメカニズム。水素爆弾の起爆装置である原子爆弾、日本で生産されているのはインプローション式の構造タイプで、最初の核分裂を引き起こす中性子点火器がすべての中心に存在する。周りをプルトニウムを用いた核反応物質でとりまく。これをコアという。コアの外側は核反応を一ナノ秒に八◯回の連鎖反応にまで加速させる中性子反射体が囲む。材料は劣化ウランやタングステンであり、このパーツをタンパーという。また、これらはプッシャーと呼ばれる球形のアルミニウムへ収められる。これにはさらに外側で起こる起爆と爆縮による圧を、タンパーとコアに伝える役割がある。さてプッシャーの外側は爆縮レンズである。レンズといっても金属やガラスによるものではなく、爆薬である。球体の爆薬を全方向から同時に内部へ爆発させることで、核分裂にじゅうぶんな圧を中性子点火器へ与えるという寸法だ。
午後十一時。
本年一月の大本営にて衝撃的な発表がなされた。理論上最強の爆発物であるオクタニトロキュバン、一キログラムの生成で大家族を一年養えるほどのコストがかかるこの化合物の量産化に国立博文大学エクスプロージョン研究チームが成功し、さらに爆縮レンズへの応用が進められ実用化寸前まできているというのだ。国民は色めき立ったし、色めき立つべきだ。また戦勝が近づいた。水素爆弾が人の手で持ち運べるようになるのである。やはりこの国の大和魂は神風に護られている。女学生一同はひとつの可能性として婦女子が実戦へ投入された際、前線各地の作戦行動におけるポケット水爆を用いた自爆テロを通して国家へ貢献する栄誉に打ち震えねばならない。
午後十一時半。
もう少しでママの誕生日が終わってしまう。勉強の合間にいろいろと送ったけれど返信がぜんぜんない。既読にもならない。なんかヤバいことになってるのかな。
笑い声。
外から。
かすかな。
午後十一時五◯分。
また笑い声、こんどはちょっと大きな。
さっきより近い。
また! ママだ!
うろうろする。胸が高鳴る。顔をほぐす。この表情で迎えようと決める。もう足音がする。ドアがガチャガチャと鳴る。きっとお酒を飲んできたんだろう。鍵を差し込めないなんてよくあることだ。開けてあげようと小走りで入り口に近づく。手にかけないうちにガチャリと鳴る。
吹き込んできた外の空気は予想していた潮風の匂いじゃなくて、くさくて、男の、目のすわった赤ら顔がそこにはあった。白髪交じりの前髪がわかめみたく落ちるおでこに玉汗がふくらみ、眼差しは焦点が合わず、広い鼻は脂に光って、口ひげは頬までぼさぼさに、突き出た唇だけが紫に浮いて、
「うぷぅ」
と言った。酒のにおい。わたしは絶句した。
「ちょっと、娘が怖がるじゃない」
とゆるみきった声が男の背後からして、きしみながら開ききったドアの、男がかけた肘をかいくぐって、紐が肩から落ちたキャミソールから乳房が丸見えになったママが、靴を脱ぎちらして入ってきた。
「ただいま」
とママは上機嫌な声を出してハンドバッグを寝室に放り投げてわたしを抱いた。お気に入りのアナスイの香水と、お酒と、汗と、べつのにおいがした。
「おかえり」
とわたしは言った。おかえりとしか言えなかった。もっと言いたいことがたくさんあった。ママ、お誕生日おめでとう。けっこうがんばったんだよ。授業が終わったらすぐに学校を飛び出して、たくさん走って、ちょっと足くじいて、こんだてのメモとにらめっこしながらお買い物をして、また走って、シャワーを浴びて、ママが、どんな、顔をしてくれるか、なにを、言ってくれるか、考えながら、料理も作ったんだよ。
「あら」
ママがコンロの鍋の中を見て、
「おいしそうじゃん。すごいね。キキちゃんが作ったの?」
と言った。わたしはうれしくて、
「うん」
と答えた。そうだよ、パスタもサラダも、デザートにケーキもあるよ。そう言おうとしたときママが高らかに笑いだして、
「ぐうぜーん」
と言った。
「ターナーさん見て、この子も今晩ビーフシチューなんだって」
背後から男の、
「ぷすぅ」
と吐息が聞こえた。
するとママがわたしの顔を覗き込んで、
「でも、先に食べててって言ったでしょ?」
とつぶやいた。一瞬わたしには言われたことの意味がわからなかった。でも、ママの声がいきなり低くなって、いきなり無表情で、凍りついた空気が背中を刺したみたいになったから、キレられる一歩手前なのは経験上わかった。
「ごめんなさい」
とわたしが謝ると、ママはまたにこやかに笑って、
「悪い子ね。早く食べちゃいなさい」
と軽くわたしのおでこを打って、お風呂場へと飛び込んでいった。
わたしは、茫然としながら、言いつけは守らないといけないからパスタをレンジに入れて、鍋に火をかけた。パスカルの原理に基づいて、複数の同じ大きさの穴から、同じ圧力がかけられた流体が、同程度の量に分散されて噴出するシャワーとかいう音と、甲高い鼻歌が漏れてきて、その合間から、猫なで声で
「ターナーさんいらっしゃい」
と呼びかけられた男は、
「水、飲んでからいくわ」
と返して収納ラックを慣れた手付きで開き、わたしのお気に入りのマグカップを手に水を注ぎ飲み干した。チーンとレンジが男の向こう側で鳴る。わたしは鍋をおたまでかき回すふりをしてシチューが温まるのを待っていた。くりかえし鼻歌が聞こえる。
フーンフフーンフーンフーンフーーン
フーンフフーンフーンフーンフーーン
フ・フ・フーンフフーフーン
フ・フ・フーンフーンフーンフーンフーン
「キキちゃん」
男がこちらを見ている。
「お母さんと仲良させてもらってるターナー・オーミーだ」
「はじめまして。キキバラ・キキともうします」
話しかけられるのは想像していたはずなのに、かたい声が出てしまった。頭がぼうっとする。自分がなにをしていて、なにを考えてなにを感じているのかをよく意識できなかった。男がまた口を開く。隙間の広い前歯、を見ながらわたしは息を止める。言葉はなかった。そのかわり、せきこむようなうなりを断続的にあげた。しのび笑いだと気づいたのは男に肩をつかまれた後だった。
「知ってるよ」
と男は言った。
「やめてください」
とわたしはにらんだ。
「それ、お母さんのぶんでしょ」
と男は言った。
「やめて」
とわたしは肩を振り払ったけれど、今度は腕をつかまれた。
「食べてあげようか」
と男は言った。
そのときわたしは、こいつを殺そうと思った。大丈夫。もう片方の腕は包丁スタンドに届く。ぶっちゃけ余裕。ちょっと油断させたら引き抜いて、どこでもいいから刺せばいい。どうせ酔っ払いだ、たいした反応もできないだろう。感じていた。いつかこうなるんじゃないかと。ずっと。漠然と。わたしは自分で死ぬか、だれかを殺すことになる。そんな気がしていた。人を殺さないとおかしくなってしまう。それは前世の記憶かもしれない。生まれつきの思い込みかもしれない。でも、ママとわたしがいて、パパがいなくて、いろんなことがあって、そうやって育ってきた家庭の、わたしにとってたったひとつの世界の、宇宙のすべてのせいだって、思いたくはなかった。わたしの人生ぜんぶがまちがいなくらいならぜんぶわたしのせいでいい。
そう思いたければ思えばよかった。
このときまでは。
とても静かだった。なにも聞こえなかった。鼻歌がやんでいた。
シャワー室への扉の前に、裸のママが立っていた。
水が線になって長くしたたる肌は赤く、まだらで、あばらの浮いた上半身の肉が落ちていく先の股には毛がなかった。
「なにしてるの」
とママはとても平静な調子で言い、その顔は無表情からしだいに震え、歪み、駅へ迎えに行った日に見たのと同じ鬼のようになった。
彼女はわたしを見ていた。
「キキちゃん」
彼女はわたしに言った。
「誘惑しないで」
壁掛け時計で架空の動物が鳴いた。
「ピッピ、カチュー!」
午前〇時。
気がつくとわたしは包丁を男へ突きつけていた。
「放せやクソじじい」
放した。裸の女が耳を刺すような叫びをあげたけど、近づいてくる様子はなかった。わたしは男のほうを向きながら移動し、ドアを背に二人を見比べて、
「お幸せに」
と笑って家を出た。
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