13. 最高級形成牛「ソラリス」――エメーリャエンコ・モロゾフ「奇譚収集家エルンスト・シュッヘの巡礼」Hell-1

Hell


 走る!
 熱い鉄板の上を跳ねるイメージで駆け下りる。
 学校は山の中腹にあって、駅まで軽いカーブを描いてアスファルトの続く坂道だ。帰りのホームルームの時間までつぶして悦に入っていた愛国省エージェントの特別講義が終わると同時に抜け出したから、わたしの前を歩く生徒たちはほとんどいない。ときどき近所の人っぽい人が自転車をひいているけれど、こちらをちらと見て道を譲ってくれる。
「すみません!」
 息をするたびに肺の輪郭がわかるようなくるしみが鼻の方につきぬけていく。平坦を行くよりも後ろに重心を保たなきゃいけないのに、足がもつれそうになって何度かヒヤリとしながら駅の高架下を抜ける。そこからも海までは一直線だけど、地元の商店街と家までショートカットするため斜めの路地に飛び込む。猫がめんくらってとびのく。エアコンの室外機にぶつかりそうになる。
 抜けると分かれ道。どちらも選ばないで空き地に突っ込む。くるぶしくらいまでの雑草を蹴って、勢いのままに一メートルくらいの段差を飛び降りる。ふだんなら躊躇してたかもしれないけれどいまはイケると思える自分にちょっとびっくりする。
 用水路。二メートルくらい。
 道を行ってたら橋があった。あそこ、道がグネっててスピードが出ないから。
 イケる。
 飛ぶ。
 金網をのぼってアパートの裏をとおり道に出る。
 ショートカット。
 成功。
 午後五時。
 まだまにあう。
 ぶっちゃけ余裕。
 でも早く家に帰りたい。
 ママは八時ごろ帰る。
 ほろほろのビーフシチューを食べるんだ。
 いっしょに。

 海。
 テトラポッド。
 二車線の道を挟んだ傾斜にプレハブ。
 わたしとママの家。
 どっと汗。
 リビング・キッチンにも奥の寝室にも、トイレにもシャワー室にもママはやっぱりいなくて、ダイニングテーブルには、
「かわいいキキちゃん、行ってくるね」
 と書き置きが貼ってあった。ママのお仕事はバーのマスターだけど今日はおやすみだから、日が沈むまでどこかに遊びに行っているんだろう。楽しんでね。
 まだ六時。
 シャワーを浴びジャージになって小学生の時に作ったエプロンを装備。
 顆粒スープのもとを二リットルの水で溶かしてお肉に塩と胡椒をふる。おこづかいを半分はたいて買った最高級形成牛「ソラリス」は本物と変わらないクオリティで、長時間の煮込みでも崩れにくいかなんとか。フライパンを中火で熱してソラリスを入れて全体をそっと焼きつけ、スープを半分と、通りすがりのおじさんから「香草だよ」と受け取ったなぞの葉っぱを加えてフタを閉じる。じゃがいもは皮をむいて大きめの乱切りにして玉ねぎは一口大に。にんじんもどきは半月切りに。とっておく。
 ホッカイ・ド産の赤ワイン「動物農場」にバター、ウスターソース、ケチャップを入れて混ぜる。調味料はどれも放射能検査でただちに影響はないとされた特注品だ。これでビーフシチューの準備は終わり。
 ソラリスがほろほろになるまで世界情勢の宿題をやる。現在継続中の大戦は連勝に次ぐ連勝で軍神マルス・イソロクは見事な膠着状態へ持ち込んでいるらしい。わが国の所属するアメリカ・ヨーロッパ枢軸同盟はいずれアジア・ソヴィエト連邦に勝利し、環太平洋の西側半分が五国協和アンド八紘一宇の大義のもと日本国へひれ伏すでしょう、とのこと。懸念すべきは統一アフリカ人民政府、独立勢力として枢軸、連邦のどちらとも敵対していたのが一部の総督府がネオポイエーシス共産主義に染まって連邦側へと傾いている。日本としては資金と兵器の両面から援助を受ける中東諸国からどれだけ多くの味方を得るかが課題である。彼らは彼らで世界大戦とは別にアラブ世界の覇権をめぐり戦争状態で、日本は見返りにその最前線にも多くの戦士たちを投入している。一刻も早く中東の沈静化を目指すべきことが日本人兵士たちの犠牲を防ぐ最善の方法であり、犠牲を無駄にしない最適の戦略なのだ。

 午後七時。高校生以下の門限を告げる町内放送の時報で部屋がビリビリと揺れる。火のもとの確認がてらスープを足してじゃがいもとにんじんもどきを入れる。たまにママは酔っぱらって駅まで迎えを頼んでくるから困るけど、気にかけてくれてるんだってうれしくもある。一度だけ、どうにもならないくらい酩酊して電話をかけてきたから行ってあげたことを思い出す。中学二年生のときだった。補導されたら投獄なので子どもだとわからないよう念入りにメイクをした。ママのドレッサーを開けたのははじめてだった。ジルスチュアートで一式あってクラスメイトが話していたブランドだから親しみが持てたし、ポールアンドジョーの猫ちゃんチークもかわいかった。ママが出勤するときに着るレパートリーから、ちょっと二の腕と股下が透ける黒のワンピを選んだのは、いちばん大人らしく見えるのもあったし、なによりウエストについたピンクのリボンがすてきだった。パンプスが合わなくて中でパカパカ言わせながら子供には見えないはずと大股で歩き、半分くらい行ったところでアクセサリーをつけ忘れたのに気がついて身が震えた。三回くらい声をかけられたけどただのナンパで、無視して通り過ぎたらなんともなかった。駅の海側の出口の階段にママは、目を伏せて座っていた。横には天然水のペットボトルが置いてあった。声を掛けるとママはわたしの足からゆっくりと腰、胸、首、と、視線を移し、それから目が合ったというよりは、顔をまじまじと見つめた。ありがとう、とか、きれいだね、とか褒めてもらえると思っていた。でもママはずっと無言で、帰ったとたん鬼のような形相でドレッサーを引き倒し、散らばったコスメたちを蹴っ飛ばして寝てしまった。次に口を利いてもらえたのは一週間後、わたしが書き置きのとおりおさげを切り落としてから。

 午後七時半。玉ねぎと赤ワインソースを入れる。別のフライパンでパスタ作りに取り掛かる。まず鍋の水を沸騰させ、横に退ける。豚かなんかのベーコンを入れ、にんにく、鷹の爪と一緒に軽く焦がす。そのあいだトマト、なす、モーメン・ドーフ一丁をサイコロ大に切り、たっぷりのオリーブオイルといっしょに炒める。入れる順番はモーメン、なす、トマト。火が通ったらコンロの座を鍋に譲る。製麺所でとくべつに買ったデュラムセモリナ五◯パーセントのスパゲッティーニ。もういつ帰ってきてもおかしくない。サラダは簡単に。レタスをちぎってお皿に乗せて、余ったトマトとママが大好きなネオハマチの刺身を乗せる。合成わさび醤油をふりかけてレモンをしぼる。シチューを味見。たぶんママ好み。午後八時。茹で上がったパスタをザルに上げて水を切り、ソースと絡めながら温めて最後に満州産スコッチシングルモルト「オルタード・カーボン」を振ってできあがり。デザートにはいちごのショートケーキもあるよ!

「キキちゃん。今日は遅くなるから先に食べててね」
 とママからメッセージ。

 大丈夫。想定内。パスタはタッパーに入れて冷やしておけばいいし、シチューは味が染み込んでむしろいいくらい。サラダも今日くらいならもつ。

 午後八時半。ひとりで食べようか。そのほうがママと会話がしやすくなるし、笑ったときにシチューを飛ばす心配もない。思案。
 
 午後九時。シチューを温めて皿に装い、パスタをタッパーのままレンジで温めてサラダといっしょにテーブルに置く。パスタはちょっと香辛料強めでくしゃみを連発してしまったけど、味は濃いほうがママは好きだし、風味が飛んでいないので安心した。麺もグッド。野菜も新鮮で、ネオハマチに添加された脂はこってりとしながらもくさみがない。レモンもかけてよかった。シチューにはソラリスのうまみがふんだんに出ていて肉もほろほろで柔らかい。にんじんもどきのコリッっとした食感がグッド。全体的にうまくいったと思う。ひとりなので存分にゲップができる。

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