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ときめきは止まらない!上野リチ展

ときめきって、大事ですよね。
でも、なんでときめきって大事なの?ということで、人がときめくことを大事にするといい理由について調べてみました。「ときめき」というと「お片付け」になっちゃう昨今ですが、お片付けだけじゃなくても人生にとって「ときめき」はとっても大切。

人生に「ときめき」が大事な理由

「ときめき」とは期待やよろこびで胸が躍る状態をさす言葉です。「ときめき」は通常恋愛感情でこころが弾む状態を指すんですね。日常生活で心が弾む場面、たとえば、おいしいものを食べた、とか、趣味に打ち込んでいるときとか、好きな歌を聞くとき。これ、すべて「ときめき」です。なんと、「ときめき」を感じる女性の6割がお肌の調子がいい!と回答しています。(マンダム調べ)
ちなみに「ときめき」を感じることは認知症予防にもなるそうですよ!「ときめき」を感じることは脳にドーパミンやエンドルフィンといった神経伝達部室の分泌が活発になるのですね。
そんな「ときめき」を全身全霊で表現したような作品を多く発表した、ドイツから来たアーティスト、「上野リチ展:ウィーンから来たデザイン・ファンタジー」(三菱一号館美術館:5月15日会期終了)を今日は推したいと思います。

上野リチってどんな人?

上野リチは、ウィーンで生まれたユダヤ系ドイツ人です。ウィーン工芸学校に進学して、そこでウィーン工房という卒業生と教授で作ったデザイン工房で活動を始めます。


当時は20世紀初頭。ウィーン工芸学校は女性の学生も多く、性差とかなかったのかな、と思いましたが、学生の約半分は女性。活発に活動していました。ウィーン工房は、イギリスのアーツ&クラフツ運動を手本にし、家具、食器、陶器、鉄製品、ガラス製品、製本、テキスタイル、革製品、宝飾、衣類・・・とにかありとあらゆるものをデザインしました。もちろん、日本の琳派にも多大な影響を受けているとみられる作品も多く発表されています。
1918年あたりまで(オーストリア=ハンガリー帝国の終わり)のウィーンは、「陽気の黙示録」ともいわれてる時代、こういう社会の終わりに向かうとき、人々の関心は文化に向いたりするもので、クリムトなんかもこのころウィーンで活動していました。
そんな恵まれた環境でデザインの腕を磨いていたリチですが、日本人の上野伊三郎さんと出会い、結婚します。伊三郎さんは京都にデザイン事務所を作ったので、京都とウィーンで(一年ごとに過ごしていたらしいです)活動をしていました。

ウィーンの反ユダヤ主義

ウィーンでも日本でも、あちこちで活躍の場を広げた上野リチですが、1922年フーゴ・べダウアーによる『ユダヤ人のいない街』(ユダヤ人は豊かじゃないか!われわれずっとこの地にくらしていた人間は生活に苦しいのにおかしいのではないか!!!となって、排斥したけど、やっぱりたちゆかなくて、ユダヤ人を町に戻した、というどっちにしろ感じの悪い小説)により、社会不安の矛先をユダヤ人に向けることになり・・・。1930年、リチはウィーン工房を退職。1932年にはウィーン工房は解散することになったのでした。

日本とリチ

そんなこんなで日本定住がはじまったリチ。京都では夫である上野伊三郎との建築事務所でデザインをします。上野家の階段や、内装がおしゃれすぎて、震えます。当時の京都にこんなモダンな家を建てて大丈夫だったのだろうか、とも余計な心配をしてしまうくらいで。作ったのは家だけではありません。京都の町にスターバーというレストランを出し、これがまた、全面ガラス張りでどうみてもギラギラしてただろうな~というモダン全開のデザイン。すごい。京都の町屋の中で目立っただろうなあ。展示されている当時の内装スケッチもびっくりです。天井はキラキラで草花が描かれています。カウンターは曲線で赤や黄色の色とりどりのモダンな椅子が並んでいました。これが戦前のデザイン?!
これは日本だけではなく、世界を驚かせました。というのも、1932年に米国ニューヨークの近代美術館で開催された「近代建築:国際展覧会」に「スターバー」の設計が日本代表として出品されたんですね。日本から選出されたのは伊三郎を含む二人だけ。その展覧会はル・コルビュジエやW・グロピウスといった当時の最先端の建築家と一緒に展示されてますので、それくらい注目の建築家だったということ。
京都の染色業の研究所に勤めたり、戦前も戦争中も非常に精力的に活動したリチ。展示を見ると伊三郎の全面的なフォローがすごいな、と感動するくらいですよ。相当、リチが自由にできるようにそばで支えているに違いありません。
(しかも背が高くて、あきらかに素敵な人の空気感が!!)

「見ると元気になる」作品をご紹介

戦後は京都市立美術大学を伊三郎と立ち上げ、後進の指導を中心にいそしみます。
ここで、上野リチ先生がどんなだったか教え子の声を聞いてみましょうー
「リッチ先生は、好奇心旺盛で真似を許さず、厳しかった。「ダメです」「やぶります」「ナイン!!」と言ってひっくり返す」と。
上野リチの作品は表現は「ファンタスティック」であるけれど、「ファンタスティック」は自由であり、独創的であり、楽しくなければならないものどと考えていたようです。
リチデザインのレストランで食事とかしてみたかったなー!!こういった大きな作品作りにおいて、日本語がほとんど喋れなかったというリチにとって伊三郎はものすごい理解者であり、協力者だったのだろうと思いました。
リチにとって伊三郎は文字通り「私の半身」たったのかも。

リチがもたらしたのは、現代の日本が世界に誇る’’Kawaii“の原型ではないのかな。



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