見出し画像

ざっくりハンナ・アーレントその③

前回の記事の続きです。
一回目→https://note.com/emofac_kubohiro/n/n67ee553e6498
二回目→https://note.com/emofac_kubohiro/n/n17b8f905b8b7

さて。三部作の最初の作品だけお話して終わっていました。
難しいなあ、と思いながら第二巻、『帝国主義』を見ていきます。

ハンナ・アーレントの『帝国主義』


当時、シオニストの活動も活発になりはじめました。シオニストっていうのは、ユダヤ民族にも国を、という活動ですね。国民国家っていうものをずーっと考えていたアーレントですから、大学生の時にシオニスト活動にも一時期参加していたそうです。国民国家っていうのが、基本的にナポレオンが戦争をするのに必要だから始まった、というお話を以前書いたのですが、ヨーロッパ(だけじゃないけど)で「国民国家」っていうのができる時、彼らはユダヤ資本やコミュニティを使っていたのですね。なのにいざできた後は「独自のコミュニティを持っているため国家に完全に属することはしていない」ものを排除するようになりました。普通にひどいなとおもいますよね。ユダヤ資本のひとたちも別にやられてばかりいるわけではなく、国家の戦略の隙間を埋めて利権を食い合うように。するとそういう社会に生まれたモッブ(落伍者)の格好の標的として「ユダヤ人」が攻撃対象になって、その敵愾心が別の利害関係者に利用される、という事態になりました。

その状況を踏まえて東欧の帝国主義国家を見ていきますと、民族的ナショナリズムが濃くなって「尊重されるべき資質を備えているはずのわれわれが、全世界を支配して、抑圧する任務を自然に与えられている」みたいに考えるようになりました。なぜならば、東欧はそもそも弱小だったから。(帝国主義です、世の中は)だからユダヤ人は将来覇権を争いかねない強大なライバルとして成長していきました。そういう相手がいたほうが、統治がラクだったんですね~
モッブたちは今いる場所で落伍者ですから、植民地に行って都合のよい人種主義「おれたちは支配者でしょ」を形成しちゃいます。やーねー。
モッブと相性いいのは官僚主義で、「高次な目的のために名無しさんたちが本国も、手続きも、倫理も無視して対応する」わけですね。
ちなみに。高次の目的ってなんだろう、と思ったら、
①庇護すべき愚かでか弱い野蛮人を
②全世界をむすび偉大な道を邪魔する野蛮人を
駆逐して、「白人の責務」つまり、世界の繁栄を双肩にになう偉大な目標をまっとうするぞ!みたいな話らしくて、ぞっとしますよね。
そんで、彼らが繁栄するのが「歴史の必然」なんだから、多少のプロセスに問題があっても、経過に問題あってもいいよね!!と思うという話。
なんか、もっと卑近な話でこういうのいっぱいあるよね…

ハンナ・アーレントの『全体主義』


三部作の三冊目だ!
モッブと官僚で「異分子排除」の方向に行くと、大衆が出てきます。モッブがきて全体主義をスタートし、そこに官僚が利益を与え、次に大衆がその行動を支持する、という流れなのだ、というふうに書いています。大衆っていうのはそれぞれ孤立している個人の集まりです。基本的に社会にも政治にも興味がありません。階級という集団がなくなったあと、「私生活の身の安全と出世」を念頭に置くようになったからです。自身の周りにある社会への関心を失うと、「世界観」に吸い寄せられるようになります。すると、自分の隣で起きていることがらが「世界の必然で個人の責任がないもの」という姿勢になってしまうといいます。
ナチスはそこにイデオロギーとアイデンティティを注入しました。イデオロギーっていうのは、さっきの「高次の目的」にフルコミットする、てことだから、それが正しいかどうかが関係ない、と。「われわれは全能だから。指導者がいってるんだから!いいんだよ」ということになった。指導者は無謬だとさらに信じることでそっちに現実を合わせていくと。
読んでいて気持ち悪くなりました。
こういう考え方で大衆は「悪の具現化」を知って。システムが人間をただの反応の束にした。と書いています。
私が一番響いたのは全体主義っていうのは、人間の感情や思考を「余計なもの」にしました、というところ。
いやだよおお。

『人間の条件』


こんな全体主義と対峙するため?に人間ってなんだろう、と考え始めます。感情や思考といった人間性を「余計なもの」にした全体主義ってなんで起こったのか?そもそも人間とは?と考え始めるんですね。
だんだん疲れてきました。
すごく難しくって、全然わからなかった。
人間には三要件があるとマルクスがいっています。それは労働、活動、制作。マルクスは労働が大事、っていってるけど、アーレントは活動が大事、って言っている。
なぜならば、労働と制作はひとりでできるけど、活動は他人がいて初めてできることでしょうと。たしかに。
(全然ちがうかもしんない)

『エルサレムのアイヒマン』


これが問題作ってやつですね。アーレントが世界的に大炎上した作品です。アイヒマンの裁判はテレビで配信されていて、その裁判を傍聴したものをアーレントは雑誌連載していました。
アーレントに寄せられた非難はだいたいこの三点。
①ドイツから(全体主義でも抵抗してたものもいるではないか。こころから賛同していたわけではなく、知らなかったんだからしょうがない)
②ユダヤ人(ホロコーストに協力していた人もいた。それは戦争責任はなく、しょうがない、として不問にしていたのだけれど、「やむにやまれず」ってなんだそれ、とアーレントは非難した)
③アイヒマンへの態度(かれは悪魔だ!と断罪したかった世界。それを見世物にしてんじゃんと冷笑し、アイヒマンにすべての罪をかぶぜようとしているけれど、それってどうなの)
とみんなにとって都合の悪い事を言って空気を乱すアーレント…
アーレントが具体的にどうしていたかっていうと
①イメージを現実より優先させない態度をとる。
②大勢に逆らって立ち止まる。
今までの論から考えると、アイヒマンというひとはモッブであり、官僚でした。アイヒマンが見せたイデオロギーへの狂信性は信念ではなくただ「能力が欠けていたから、思考停止をしていたのだ」といいました。
アイヒマンだけではなく、多くの人々、ドイツ人もユダヤ人も、ユダヤ人の受け入れを拒否したヨーロッパの多くの国の人、それぞれが「それは上の人が決めたこと」ということにこそ、責任があるのだといいました。
その場に置いてなんらかの利を得た人物は、証言をしませんでした。保身です。戦後、多くの国は無国籍になったユダヤ人たちに冷たくしました。「余計なもの」だったからです。
そもそも協力しなければホロコーストは生まれていないといいました。経験を語れず、法廷の場では特に、その場に応じた思い出や証言がうまれた。その場のいって欲しいことをみんながいうのです。
アーレントは「悪の凡庸さ」というキャッチ―なことばで表現し、その言葉は流行りましたが、それ以上に叩かれました。なぜならアイヒマンは普通の私やあなたのような人間ではいけなかったからです。わたしが彼の立場になったとき、どうするのか。どうできるのかはわかりません。

最後に

私はものを知らないので、アーレントが何言ってるか全然わからん、と思うところも結構あったのですが、はっきりとはわからなくとも、なんとなく、感覚は伝わる、と思うところが多かった感じがします。
ストーリー的な部分を追うと結構キツイな、という感じだったんですが、「アイヒマン」のところで思ったんですけど、この報道(っていうか全世界中継だったんですよね)を見た人たちの心の声は「あいつがわるい」だったと思うんですけど、私もあいつはわるいだろ、とも思うんですけれども、「その起きた物事」は一人がおこしているわけじゃない、んですよね。たくさんのひとがそれぞれの意図や意思やもしくは全然思ってなかったことでひとをあやめたり、救ったりする。

まだ結論は出きらないんだけど、それはよき人とのコミュニケーションとか、立ち止まることとか「それってどうなの」って思うことで出来得る限り物事をいろんな立ち位置で見てみて、近くで見たり遠くからみたりすることでもしかしたら少しでも回避できるのかも…なんて思うのでした。
でも。自分がアーレントの立場になったらそんなこと思ってもいえねえ、ってなるし、アイヒマンの立場になったら、やっぱりきっと機械的に「数を減らすには…」ってやってしまうかもしれん。
いやだけど。いやだなあって思うなら今は多くのことをみんなで学んで考えよ!しかない、かなあ…となんとなーく思うのでした。

哲学カフェ、次回はそれぞれの日常とか本を読んで思ったこと、考えたことを持ち寄る会。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?