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企画展「和宮 江戸へ」江戸後期の調度品にトキメキ

江戸東京博物館 企画展 「和宮 江戸へ ふれた品物みた世界」
コチラのレポートを掲載します。(現在は会期終了)「古代エジプト展」の裏でやっていた企画展です。将軍の正室は基本的に第三代徳川家光以降、宮家から迎えるのが習わしでした。彼女たちを通して京都の宮廷文化が江戸に広く取り入れられたのでした。今回の展示は公家文化と武家文化の和合に真剣に(かわいそうなくらい)取り組んでいた和宮の降嫁に伴う調度品や、直筆の手紙などが展示されていましたよ。

1.和宮が孝明天皇から拝領した香木

香木、「若木梅」。
孝明天皇(異母兄)に江戸に行くご挨拶をした時、頂いた。と香包に書いてあります。

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香木は和紙で出来た香包に包まれており、(由来は香包の裏に書いてあるそうだ)さらに蒔絵の箱にピッタリ収まっています。
表面は梅、裏は鶯。
とゆーことは、香木のサイズに合わせて作らせた箱ですよね。そう、すごくピッタリおさまる大きさ。(見た目)

では、和宮さんはこの貰った香木を聞いたのか?聞いてないのか?少し割ってから(使う分と他の人に分けたげる分を別にして)箱を作らせたのか?
どっち?どっち?!

ところで、和宮さんと篤姫さん。このふたりについては、さまざまな持ち物が散逸せず今に残ってる。さっすが、皇室&島津ですね。(皮肉)

素晴らしい。徳川美術館にマジ感謝ですね!

ちゃんと正倉院並みに管理表残してから無血開城すべきでした。(皮肉)ねー!

2,眉づくりはた身分や立場を示すたしなみでした。

村梨地葵葉菊紋散花桐唐草蒔絵 眉作り箱

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ブラシの量!!一生分ですか…まあ、そうかも知んないけど。
どう使うんだろー!と思うと、気になってしょうがないですね!!

歴史的に日本人は眉に独特の美意識を持っていました。

奈良時代から江戸時代の終わりまで、「引き眉」といい、眉毛を抜いたりそり落としたりしていました。平安時代にはそり落とした眉より上に楕円形の●を描くもので、「まろ」で親しまれている眉を書いていましたね。江戸時代はそり落とした眉の上に手がきで眉を書く、ということが風習になっていました。ちなみに既婚女性は眉はそり落としただけで描かないそうです。

眉毛は人相を見るときにすごーく大事だそうで、よく考えると「眉」についての慣用句は「眉をひそめる」とか、「眉間にしわを寄せる」など多くありますね。眉を描くことで、自分の気持ちが相手に読まれないようにするなど、昔から人との距離感広めな国民性なのかもしれないですね~

それはともかく、上記の眉セットは和宮の婚礼調度品だと言われているものの一つです。というのも、葵(徳川家の紋)と葉菊紋(和宮の紋)が二つ描かれているからですね。ポイントはどちらが大きい、とかなく、同じ大きさで同じ圧で描く、というところです。さて、どちらが作らせたのか?正解は和宮降嫁に利益を得た人びとで、他にも、鏡とか耳盥とか、うがい台とか、こんなものまで!!というものまでたくさん残っていますよ。和宮降嫁に人生をかけるひとがどれだけたくさんいたか…!!

いろいろ感情面についての伝承はあるにしても、公武合体の一大イベント。朝廷的にも、幕府的にも、調度品をケチるなんてありえなかったわけですし。どっちの印も同じように描くことの必要性…

たかが14や15の子どもたち(といえるかはわからんが)がこんなふうに国を背負う人生なんて無くなってよかったとほんとに思っちゃった。

3.ひな祭りのお道具にうきうき

これまた有名な和宮の婚礼調度品。葉菊紋のおしゃれな描き方。こんな自由なのね。和宮紋なのにね。

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文机、文箱、絵巻物

きっと大切に保管していたんだと思うんですよー。つがいの鶴と竹…ここにも、公武合体だぜ、後継ぎだぜ!のプレッシャー。

紺綸子地竹雌雄鶏図刺繍。ふくさですね。 

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竹に鶏。鶏は卵をいっぱい産むので、子宝祈願の定番ですよ。竹も同じく、ニョキニョキ出てくる竹の子で、たくさん子を産めよ、と。
袱紗とありますが、風呂敷的にものを包むのに使っていたそうですよー。この袱紗、小袖を解いて作ったものです。
当時は貴人の服も古くなったら捨てたりしませんでした。布は高価なのです。なにせ、北政所の着物だって、淀殿の着物だって作り直して子ども用に仕立て直したりしているのですから。


4.和宮ってどんなひとー?

さて、幕末期を描くあらゆる作品で大概悲劇的?に描かれてきた和宮。どんな人なんでしょう?ざっくり説明します!

和宮は当時の天皇、孝明天皇の異母妹です。
当時は尊王だの攘夷だのなんだの…そういう時代です。
朝廷だって、尊皇派、攘夷派、幕府派もいて、この人たちがどうやって権力を朝廷に戻すかもう毎日大変ですよ。この頃からこそこそ料亭で会合すんの好きなんだな。

さて、和宮は5歳ころ、有栖川宮(当時17歳)と婚約します。色々あって結局これは破棄になって(この時のバタバタと朝廷の恨み言がすごく、いっぱい残ってます。なんでも文章に残すとこうなりますよね!)、第14代将軍徳川家茂に降嫁します。
ごちゃごちゃいろいろあちこちで問題を、というか外側での権力争いを引き起こしながらした結婚ですが、2人はとても仲良しでした。

でも、まー家茂さんは若くしてなくなりましたけど。
そんでもって、大政奉還→江戸城無血開城です。そこで、13代将軍の正室だった天璋院篤姫と力を合わせて徳川家の存続に力を尽くしましたとさ。

と、すごくざっくりに和宮を紹介しました。ちなみに今残ってる和宮と言われてる写真は全部別人ってこともわかってるし、ちなみに(皇室関連では珍しく)お墓の調査もされています!(だから、写真が全部別人だということがわかっているのです)

和宮と篤姫(篤姫は薩摩藩出身)がいなかったら、こんなに当時のものがきちんと残ってなかったと思う。だから、和宮ありがとう!


5,うっとりする美しい香道具は誰のもの?(答えが出ない謎解きしてます)

写真②黒塗桜花唐草蒔絵十種香箱

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和宮が使っていた、と徳川家が書いて保存していた品物です。葉菊紋の模様ではないので婚礼用具ではないですが、江戸城に入った後、和宮に伝えられて使っていたものだと言われています。江戸城の火事ああった際に焼けてしまった、などと言われていますが、真実はいかに。
実は志野流さんのお道具で和宮が使用した、といわれている香道具が残っているようですね。(シンプルなものだと聞きました。ほんものを見たことがないので、なんともいえませんけども。)

この香道具、桜の花の意匠がすごくかわいくないですか?桜花紋を使っていた人は誰でしょう?よおおく見ると、灰押さえが志野流では?そういえば、他のお道具より武家っぽい。今は前にいた側室の誰かでは?という感じらしいですが、誰か分かったら面白いねー!まあ、分かった上で大して名の知られていない人物で、スルーされてる可能性も。。。!

気になりますねえ。
和宮は懐紙入れとかきせる入れも残っていますが、その意匠は雉と八重桜。秋冬は竹と虎。公家出身らしく、きらびやか!です。

さすがに篤姫と和宮の使っていたものはガッツリ記録が残っています。
そういえば去年のメトロポリタン美術館で行われた「源氏物語展」でも徳川美術館の十種香箱が出てました。


江戸→明治へと続く時代の流れを感じましたし、当時のかわらばんなども展示されていたので、二人の婚儀がどのくらい話題になったのか、よくわかりました。公武合体とか、ちょっと無理あるし、どうせ長続きしないじゃん、と思っていましたが、日本の開国は孝明天皇(鎖国にもどしたい)にとってほんとうに衝撃的だったのだな、海外の情報は何もはいらないわけではなく、隣の大国清がどのように欧米列強に蹂躙されているのかもしっかり(おおげさに)ニュースになっていました。

家茂さんの「宝物入れ」の中身も展示されていたのですが、「きれいな石」とか「方位磁針」とか「遠眼鏡」とか男の子(子ども)の大事なもの、という感じですごく切ない気持ちになりました。こんな子どもにそんな責任を負わせるなんて…!とぷんぷん。ふたりの手紙も展示されていましたよ。

会期終了していますが、現在大河ドラマでは明治維新をテーマにしておりますから、またどこかで目にするかもしれません。ぜひご覧ください!



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