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『平家物語』についてモノがたる

『平家物語』の面白さをいろんな方向から語っています。(→①はこちら

絵画に描かれた『平家物語』を見てみましょう!

1.「大原御行図屏風」長谷川久蔵(東京国立博物館)を鑑賞してみよう

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この屏風の作者である長谷川久蔵についてお話しします。

長谷川久蔵は、安土桃山時代の長谷川派と呼ばれる流派の絵師です。お父さんは長谷川等伯。長谷川等伯さんは松林図屏風が有名ですね!

松林図屏風はコチラ↓です

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久蔵さんは小さい頃から才能に溢れていたらしく、「画の清雅さは父に勝り、」と本朝画史という、狩野永納によって編纂された江戸時代初期の日本画人伝に書いてあります。そんなすばらしい才能の持ち主でしたが、26歳の若さで亡くなってしまいます。

京都の東山智積院にある、国宝「桜図襖」は亡くなる前年に描かれています。
そのあたり、小説の『松林図屏風』に書いてあったりしますので、興味のある方は読んでくださいね!

漢画の流れを汲む長谷川派、狩野永徳といろいろあったりなかったりライバルだったり共存したり、面白おかしく描かれますが、どっちもヨイので、両方残って、両方見られるわたしたちは幸せですねー

2.『平家物語』がさまざまな文化に与えた影響

『平家物語』の特徴のひとつに、後世、エピソードごとに歌舞伎や能、狂言などの演目になっていることがあります。

『平家物語』を題材にした演目は数知らず。能だけでも60くらいあるといいます。

ちなみにわたしが小学生で初めて見た歌舞伎、「義経千本桜」は『平家物語』『義経記』を題材にしたパロディです。

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このお話は源平合戦後、都を落ち延びる源義経をきっかけにじつは生き延びていた平家の武将たちと周囲の人々の悲劇を描いた作品です。

そういう創作も含めると、ものすごい大量の『平家物語』がこの世を埋めてます。

有名なものだけでも『敦盛』『俊寛』『巴』『八島』etc。

完全に「100分で名著」の受け売りですが、能を大成させた世阿弥が「『平家物語』は文章が素晴らしいから、源平の名将を主人公にする時は『平家物語』のままに書くべし!」と残したとか。

さすが語られた文学だけあって、読みやすいですので、興味のあるエピソードだけ読んでもステキを実感できますよ!

3.『平家物語』推しエピソードをざっくり解説

『平家物語』は名作過ぎて、いわゆる「キャラ立ち」がすごいです。推しキャラがてんこもり…
だから、このエピソードもいいけど、こっちのこの人が推せないではないか!と悩みながら、今回は木曾義仲の最後について推しまくりたい!

とりあえずざーっといきます!義仲さんはこちらです↓となりは巴ちゃん。

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平家物語の7巻くらいから9巻までが木曾義仲が出てくるところです。お話しの中盤の盛り上がり。

平家の皆さんの傍若無人な振る舞いに後白河法皇の子、以仁王が平氏を打倒せよ!と天下に号令をかけます。
頼朝や義経とともに呼応したのが我らが木曾義仲。本名は源義仲といい、頼朝や義経の従兄弟です。
長野県の木曽に住んでたから、木曾義仲と呼ばれていました。

木曾義仲と子分たちはわりとあっさり平氏の皆さんを京から追い出しました。
これに感謝した後白河法皇、木曾義仲に京の警護を頼みます。
義仲の栄華はここが最高!!京のみなさんにやんややんやの喝采で迎え入れられました。

しかし、このひとガキ大将気質で、子分たちからはほんとうに人望があるんですが、これがまっっったく京では受け入れられなかった…。

ガサツで風流が分からず、余計なことばっか言ったりやったり…そのうえ下品に(当時の感想ですよ!)ガバガバ笑う…そしてやりたい放題…!
貴族たち、イラッとしまくったんですよ。

さらに当時は飢饉で義仲軍の兵糧どうすんの問題が勃発。(結論、略奪した)

皇位継承にも口出ししたもんだから、とうとう後白河法皇がキレて頼朝が送った軍(義経、範頼軍)に追い出されて、とうとう粟津で討たれてしまいます。

ここからですよ!

その時、ずうううっと苦楽をともにしてきた幼なじみの子分①巴(そう!かの有名な美女武者です。木曾義仲の妾だったと言われていますが平家物語にはそんなこと書いてない)子分②今井兼平(巴のお兄さん)と号泣ものの別れがあるんですよ。

巴は逃げて信濃に帰れ!!といわれ、義仲軍と最後まで行かせてもらえませんでした。巴は泣きながら承諾し、敵将の首をねじ切ったり(!!)する場面はいろんな意味でびっくりします。(ねじ切るんだ…)

今井兼平はお互い一緒に死ぬと、約束したよねー!と敵に突っ込んで、先に義仲が(名乗りをあげたので、囲まれてめったざし)絶命したのを見届けて口に刀を突っ込んで馬から落ちる(!!)という方法で自害します。

そんな、ヤバいきょうだいも出てくる木曾義仲編、非常にオススメします!

4.「大原御行図屏風」長谷川久蔵(東京国立博物館)より、「大原御幸」のお話

壇ノ浦の戦いで平家一門は滅びました。
6歳の安徳天皇は三種の神器を抱えたまま祖母である時子(清盛の妻)に抱かれ入水しました。
総大将である平知盛は入水、平家一門の当主、平宗盛は捕らえられ、鎌倉に護送されて斬首。
最後の生き残りだった平清盛の孫、平維盛の子、六代も鎌倉に送られて処刑されてしまったので、完全に血が絶えてしまいました。

平清盛の娘で安徳天皇の母、建礼門院徳子は壇ノ浦で命を助けられました。
建礼門院は都に送られ、尼になり大原の寂光院で隠棲しています。

ーー完ーー

と、なるとあまりに救いがないのでは?
と言うことで(たぶん)できたエピローグ。
それが「大原御幸」です。
平家物語、ラストの名場面。
これも、能の演目になっています。

ちなみに、これは史実ではなかったろう、(公に一切の記録がないので)と言われていますがどうなのでしょう?では以下、灌頂巻ざっくり解説スタート!

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寂光院を訪れた後白河法皇も周りの公卿たちも、殿上人も(けっこうな大所帯で来てるんですよ、これが)涙します。
屋根は破れてるし、あちこち草に覆われています。
そこにかつては宮中で何十人もの人々を従えていた建礼門院が今は尼3人ほどで暮らしているなんて、信じられない!

そこに仏花を摘みに行っていた(ボロの服を着た)建礼門院が帰ってきて、2人は少し言葉を交わします。
ここで、建礼門院は自らの半生を「六道」になぞらえます。

ちなみに「六道」とは天上、天下、修羅、畜生、餓鬼、地獄、というひとがその業の結果として輪廻転生する世界のことです。仏教用語で「畜生道に落ちればいいのに」とかいう形で使われますね!

そんな六道を自分の人生一回で味わったから、今の境遇は一時の嘆きでしかない。こうして朝夕供養するのが後生のためにはよかった。といいました。

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素晴らしいエピローグ!!

どう素晴らしいかと言いますと
①平家物語を流れる仏教観を見事に表現
②建礼門院の語りと一緒に読者はもう一度平家物語を回想する
③平家と平家を滅亡させた張本人(なにせ、追討の命令したのは後白河法皇)がこの会談で和解する

お見事です!



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