1/2中年の危機
「中年の危機」という言葉があるが、その半分くらいの年頃、20代半ば〜後半の私や友人は社会人になって数年経ち、自分の人生をどう過ごしたいか、何を頑張るかみたいな話をよくする。びっくりするくらいみんな同じような話をするし、そういうお年頃だという人もいた。
なんだろう。Z世代がどうとか世の中は言っているが、それはデジタルについていけない人たちが他を理解するための「ラベル」で、アイデンティティーなんかではない。同じテレビ番組を見て、同じ音楽を聴いて「流行り」が明確だった世代からすると、物珍しかったり、無礼だったり、少子化のせいで私たちの世代は生産人口に対して少々マイノリティー気味。それに加えて、物理的に人に接触する機会よりオンラインコミュニケーションが主流になっている場合も多いせいか、帰属意識が薄いし孤独を感じやすい。情報が飽和しているから、シンプルな答えがないことも多い。
主観的には、周りに流されず自分の意思に基づいて物事を決定してきたつもりでも、実はレールから外れる度胸もなく、将来に対する漠然とした不安を抱えた結果、無難な選択肢を取るということを繰り返し、この年になって周りにいるそうしてこなかった人たちを羨ましく思ったり、自分も実はそっち側の人間だったのではないかと思ったりすることもある。
私は「これ」で生きていく、私の本業は「これ」だと思えるものがあるようでない。小さい頃から割といろんなことをある程度できるようにしておこうとしていた。今までの経験上、できることが偏っているよりは満遍なくある程度できる方が選択肢は多かったように思うし、自分を受け入れてくれる人の数も多かったと思う。そうすれば社会に溶け込めたように感じられるだろうし、孤独を感じないようにすることもできる。
でもそれはまやかしに過ぎなくて、「自分の居場所はここだ」「自分の時間と労力を使うべきものはこれだ」という「これ」を見つけようと思ったら、帰属意識なんて求めてもしょうがないんじゃないか。オールマイティにいろんなことができたら器用貧乏になるだけだと気づいた。1つ突出しているものがあって、好きなことも限られていたら、「これ」はすぐ見つかっていただろうか。子どもの頃から周りを気にせず思うがママに生きていたら今こんなに考えることもなかったんだろうか?
別に他人の行動を否定するつもりは全然ないけど、職場の人間と頻繁に飲みに行ったり、休日も会って遊んだりする人たちは、仕事が人生の醍醐味なんだろうか?ごく稀に自分の好きなことをやって生計を立てている人がいるけど、大抵の人間にとっては仕事をするのはお金のためだという大前提で、そこに少しでも自分の感性や興味を生かせることができたらラッキーぐらいなのではないか?お金を稼ぐことと承認欲求を満たすことと帰属意識を満たすことを1カ所で済ませようとするのはかなり難しいことだと常日頃思う。
大学を卒業したばかりの頃は、その3つを仕事で充そうとして、同僚や同期と仲良くよくしようとして、仕事してない時間も勉強して、自分のキャリアについて考えて、それなりの「ビジョン」を掲げようとして、積極にアイディアを出したり、わからないことを教えてもらったり、評価を気にしたり、褒めてもらって喜んだりしていた。
違和感を感じることなく、懐疑的になることもなく、そのまま仕事人間になってたらもうちょっと給料はいいだろうし、仕事について考える時間が多いだろうし、いわゆるキャリアウーマン的な生活をしているんだろうけど、そうはならなかったしこれからもそうはならなさそうだ。
考え方が変わったきっかけはたくさんある。
まず、上司と価値観が合わないときづいたこと、同僚と話していても楽しくないこと、先輩を見ていてああはなりたくないと思う人ばかりだったこと、自分には裁量がないこと、裁量は剛に従った後に付与されるらしいと気づいたこと。それまで耐えるのは無理だと思ったこと。一生懸命やらなければ、同僚に何を言われても聞き流せると気づいたこと。サボっても頑張っても報酬は変わらないと気づいたこと。
結局のところ、労働者は軍人と同じで、自分の意思ではなく命令によって動く。できたかできないかの結果で判断され、そのプロセスにおける工夫や苦労は見られない。だから最低限やって結果だけ出して、余った時間は自由に使った方がいい。同僚と仲良しごっこするために行き帰りの通勤時間を使うのはもったいない。好かれようとして気疲れするくらいならつまんない交友関係なんて持たなきゃいい。そう思うようになった。
3年かけて、今の仕事は私の「これ」候補から外れた。転職して「これ」を見つけようとすることもできるけど、仕事は楽に越したことはない。このまま最低限仕事して生計が立てられる状況を維持して、好きなことを好きな程度やればいいやという気がしている。ただ、目的や目標や「わたしにはこれしかない」がある状態ではないのが気がかりなのが本音。そもそも自分の意思で生まれたわけじゃないのだから人生に醍醐味なんて必要なんだろうか?このまま中年になって、ふと自分は世の中に何も残していなことに気づいて、人生をやり直したくなるんだろうか?だとしたら今から急いで自分の「これ」を形作っていけばいいのだろうか?でもその動機は自分の夢や情熱というより自己肯定のためではないか?
自分は「何のために」「何を」「どうやって」「どの程度」やっていくのか。国語の読解みたいなことだけれど、それが決まらない。やりたいこともやりたくないこともある程度自覚があるが、変に打算的に考えてしまい、「思うがママ」ができなくなってきた。失敗する時間の余裕もないと思うし、気の迷いなんだったらそれは時間が解決するだろうと思う一方で、思いつきでないと行動しない節もあり、計画を立てようとすると現実が見えてきて諦めてしまう。年齢とともに「頭でっかち」に拍車がかかる。
結論は特にないし、答えもない。ただ、決めることが憚られて考えるのをやめられないだけなんだと思う。