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被災地の家族と東京の私、気持ちの所在

今は1月4日正午、家族から被害はあるものの生活はできているとの連絡あり。今回は昨日の続きで気持ちの所在について。
本当に書きたかったのはこちらで、前提として昨日の記事(当日の出来事)があります。


2024年1月1日、令和6年能登半島地震で実家が被災した。その時私は東京にいて、家族と連絡をとりながら無事を確認した。
特に母親とのやりとりはショックだった。現地で被災した方々の方が大変なのはもちろんだが、離れた場所にいて様子が見えない、わからない、電話を切ってしまえば何もわからなくなることが余計に不安と恐怖を掻き立てた。

地震当日の夜

18時頃、家族とは「おやすみ」と連絡を終えた。この時間におやすみを言うのは田舎の夜の暗さだなあと東京との距離を思う。
夜に用事があり、よほどキャンセルしようかと思ったが家にいて何ができるでもなく、家を出た。
時間が経つと気が緩んだのか涙が出てきた。吐き気もする。少し涙を出すと気持ちが軽くなるが、しばらくするとまた涙が出てくる。家族は無事だったのだし頭は冷静だったつもりだが、情緒が追いついていない。

ショックで怖くて不安だが、それは被災した家族はもちろん他の誰にも言うことでもない。心配してくれた友人たちには「大丈夫、ありがとう」と返したが、それは本当のことだけど友人に心配をさせるわけにもいかないというのもあった。誰にも言えない感情を抱えるうちにだんだんと、被災せず安全圏にいるのに不安や恐怖を抱え心配になっている自分が大袈裟なのではないかと、情緒が追いつかないことに罪悪感すら覚え始めた。

こうなってくるとますます一人で抱えるのがしんどくなり、誰かにとは言わずともどこかに吐き出さないと、このままでは自分がダメになると思った。
インスタグラムではきっと友人に心配させてしまう。そうするとまた「大丈夫」と言って逆に抱えてしまう(頼れるものならいくらでも吐露するが、今は大丈夫としか言いようがない)。こういう時はXだと吐き出してみたがやはり大袈裟な気がして消した。

涙を流すところからツイ消し、そういうことを一晩で何度も繰り返した。

私は被災者ではない

地元が被災した。家族は今この瞬間もどうなっているかわからない。離れているとはいえ他人事ではなく、心は完全に現地にワープしている。
でも私は被災者ではない。何が起きているかこの目で見ることすらできない。倒壊する心配のない部屋で、暖かいベッドで眠ることができる。

地元の友人たちに連絡したところ幸いにもみんな無事だったが、殆どは家には居られず避難していた。こちらから明るく話すことはしないが、相手が明るく返事をくれたらこちらからも同様に返した。でもきっとみんな心配させないように明るくしているだけで、私は同じテンションで返してはいけなかったんじゃないかと思う。
私も不安で怖い、でも彼女たちとは比にならない。どう振る舞うのが良いのかわからない。やはり当事者ではあるものの、被災者ではないのだと思い知る。

また被災地への支援活動や応援の声に感謝の気持ちが溢れるも、同時に「私がお礼を言う立場なのか」とも思い始めてきた。だって私は東京にいる。

もののけ姫で山犬のモロがサンのことを「人間にもなれず山犬にもなりきれぬ、哀れで醜い可愛い我が娘だ」と言ったセリフを思い出した。私は部外者にもなれず被災者にもなりきれぬ、哀れで半端な富山県出身者だ。お前にサンを救えるか。

地震の話は迷惑か

そうこうするうちに、1月2日にはXの流れが少し変わってきた。
「ショックな映像や報道を見て辛くなった人は心を離しましょう」「こんな時だからこそ楽しく過ごそう」「過度な自粛はやめよう」そんな声を多く見るようになった。
誤解の無いように言うがこれは私も大賛成で、以前から、そして今も心からそう思っている。なのでもしかして私の吐露が誰かに辛い思いをさせたのかもしれない、私に気を遣って楽しいポストができなくなっている人がいるのかもしれないと思うと申し訳なくなってきた。

一方で、じゃあ私の気持ちは、という思いが出てきた。誰にも吐露できない、しかし抱えきれない不安や恐怖はどこでどう昇華させれば良いのか。
自分の中で頭と心が剥離していくような感覚。まだ昨日の今日なのに被災地を思う発信は罪なのか。様子を伝えることは迷惑なのか。家族を想って不安になることの何がいけないのか。
気持ちの吐露ではなく誰かの役に立つことならあるいは、と考えるも、やはり東京にいる私には誰に何の役に立つことも持ち合わせず、どうすることもできなかった。
考えているうちにお腹が痛み始め、このままでは心身を壊してしまうと思った。

このままではいけない。誰も迷惑だなんて言わないだろうし、悪いことをしているわけでもない。またソーシャルメディアは受取手に選択肢があるので、申し訳ないけれど私はこれからも思うままにポストすることにした。震災の話もするし、くだらない話も楽しい話もする。「それでも見たくないならミュートしてください」とポストした。人のために自分が壊れるものではないし、もし私のような人がいたとしたら、ポストし続けることがその人の役に立つかもしれない…強引な正当化だけれど、私は被災者ではないが当事者なのは確かで、昨日の今日でこの大惨事に対して口を閉ざす理由はないはずだ。
東日本大震災の被災者が「忘れないでほしい」と言う気持ちがわかった気がする。忘れるわけないじゃん??と思っていたが、気にかけていることは口にしないと、行動にしないとわからない。

星野源のオールナイトニッポン

そんな中、1月2日の星野源のオールナイトニッポンが生放送に変更すると知った。何のためとは言わず、ただこんな時だからこそ一緒に過ごそうと。
その日も用事があったが、リスナーの意地でリアタイした。本当は心の拠り所にしたかっただけなのだけど。
「こんな時だから通常通りの(楽しい話をする)放送にしてほしいとのメールがたくさん届いている」とのことで、やっぱりそうか・・と思ったが「くだらない話もしますが不安になる話もするかもしれない。でもそれでいいんです、一緒に不安になりましょう。不安は無理に剥がそうとしても剥がれるものじゃないし、一緒に不安になることで軽くなることもある(意訳」と話してくれ、一気に救われた気がした。不安になるのもその人の自由なのだと。
普段は何気なく聴いていたジングル「眠れない夜を、眠らない夜へ」の言葉が沁みた。
辛い時、深夜に無駄話をしたり真剣に話したりするなんて、こういうの友達って言うんだよね!(ANNネタです)

1/9まではradikoで、1/9以降はSpotify で聴くことができます。
Spotifyは今からでも聴けますが権利の関係で曲が流れないのでradikoがおすすめ。

同じ思いを抱える人がいたら

被災者ではないが当事者であり、だからこその不安も恐怖もあるがさまざまな罪悪感に苛まれ苦しくなっている、そういう人は他にもいるかもしれない。
私も「一緒に不安になろう」と言えたら良いのかもしれないが、いかんせん今の私には余裕がない。人を助ける時は余裕がないと難しく、無責任には言えない。
そこは家にガッキーが居て紅白も常連になり(それが全てではないのはもちろんだけども)、あるベクトルでは人一倍の余裕がある友人の星野源に任せて(笑)、我々は安心して不安や恐怖を感じ、心配していい。大丈夫。疲れたら休んでもいい。私もあなたもまずは自身の心身を守り、無理や我慢をしないこと。

みんないろんな思いを抱えていて、そこに正しいも正しくないもない。大きな声に揺さぶられたりするけれど、感情を表に出していないだけの人もたくさんいるはずで、きっと一人ではないし、それぞれが抱く感情は間違いではない。感情を認めて、自分自身をケアしてあげてほしい。

被災者も当事者も、そうでない人も、自分を認めて労わり、あたたかくして、ゆっくり眠れますように。

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