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めんどり


僕は数年前、フランスにある禅寺にいた。

人生にはそういう時があるものだ。本当に、人生ににっちもさっちもいかなくなっていた。長いこと一緒に暮らしてきた、妻とも別れなくっちゃいけないことになっていて、これは今になっても、とても残念なことだけど、別れなくてもよければ、こんな悲しい選択をしなくてもよかったんだけど、そういうわけにはいかない、いくつもの、複雑で、歪曲した理由が二人にはあって、離婚という選択をすることにした。

もちろん彼女にも悪いとこはいっぱいあったけど、僕のほうが一緒に生活した中で、もっともっとあったことは知ってたから、ひどい喧嘩もいっぱいしたし、彼女が傷つくことをわざと言ったりしたこともあるし、だから余計おち込んだ。あんまり、反省しながら生きていく、タイプじゃなかったけど、反省していて、行き詰っていた。

仕事だって、長い間やってきたけど、うまくいく時とうまくいかない時の、波もひどくって、それが彼女をいらだたせる理由の一つでもあった。お金さえあれば、解決できるとは言えないけど、幾分かの問題は経済的に裕福だったら、簡単に解消できたかもしれない。

そんなこんなで、離婚のとき、すべての財産を彼女にすべて持って行ってもらった。それが彼女からの分かれるときの条件だった。アパートメントとギリギリ乗れる「チンクエチェント」とか、おばあちゃんから受け継いだ由緒ある本とか銀器とか、そういうもの一切合財、文句言わずに、離婚の際手放すことにした。

なぜか、ほっとした、モノから解放されることと、彼女にできる限りのことをしたかったから、男意気だして、かっこいいところを最後の最後ぐらい見せたかったけど、あんまり認めてもらえなかった。今になってみれば、どうでもいいことだけど、その時は、僕の気持ちを受け取ってほしかった。できる限り、彼女が幸せになれることなら、何でも別れるときにしてあげたかった、それが、僕からの唯一結婚生活で「与える」ことのできるものだったから。本当は愛を与えあいたかったけど、結婚生活って、そんな簡単なもんじゃなかったし。


そんなこんなでいろいろあって、逃げるように、と言ってもいいし、行くとこもなくって、狭い郊外の母さんの家に帰るのはもっといやで、フランスにある、ちょっと若い時、仲間内で有名だった、ロレーヌ地方の山奥にある禅寺に行くことにした。数か月間いた中で、僕の仕事の中心となるものは、雌鶏の世話だった。

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その禅寺のグルはアウグって呼ばれていたんだけど、その禅寺の和尚ともいえる、トップがなぜかすごく雌鶏が好きだった。アウグはこんな禅寺のトップを長年やってるだけあって、けっこう愛さるべき人だった。彼は雌鶏をひどく愛していたし、ああいうすごい貧乏な禅寺が、どうにかやっていくには、経済的にも必要なものだった。

その卵で作った、オムレツはこの界隈では有名だった。普通禅寺っていのは菜食で動物がかったものは食べない。でもフランスにある禅寺では、それはおおらかだった。

日曜日には、禅寺観光ツアーみたいな感じで、たくさんの人がやってきて、僕たちが酵母パンなんかを作るところを物珍しく、見ていった。その時だしてくれるお布施がいい財源になってたから、ごちそうをしなくちゃいけなかったし、そのうえで卵っていうのは便利だった。だから日曜日は卵を使って、オムレツとかキッシュとかケーキとか作って提供していた。いつもよりメニューは豪華だった。

お肉とかも、感謝すれば食べればいいだろうって感じだった。なぜか鴨のコンフィの一番おいしいものを食べたのは、あの禅寺だったし、オープンワイナリーの日には、禅寺全体を閉めてみんなで試飲に行ったりして、けっこう楽しかった。夜はみんな酒を飲んでたし、これは仏教徒ではありえないことなんだけど、それはそれでフランクにみんな楽しんでた。

ちょっと60年代のヒッピー村って感じだったかも。ヒッピー村に行ったことはなかったけど。その時代にバリバリだった先輩も沢山いて、禅寺だったけど、なぜかサンスクリットの歌とか、ヨガとかも混ざったりして、おもしろかった。


毎日とりあえずやることはたくさんあって、あんまりものを考えなくってもいいのもよかった。パンを小麦から作った酵母で焼いたり、暖炉や竈に使う薪を準備したり、炭を焼いたり、畑や雌鶏の世話をしたり、庭を掃除したり、禿げたペンキを塗りなおしたり、週末にくるお客さんに快適に過ごしてもらうのも僕らの役目だった。だから月日は、目くるめくすぎていった。

よく、ああいうコミュニティーとか、修道院に何十年いる、とか聞いて驚くけど、そういうのをやってみると、けっこうあっという間に過ぎていっちゃって、今考えてみると、ここに住んで何十年なんだなーって、思うのはよくわかる。

それは普通の人生でも同じことなんだけどね。結婚して20年くらいたってたけど、あっという間だったって言っちゃ、あっという間だった。
こういう禅寺には、数か月から、数年、そう思ってたら、数十年たっちゃったっていう住人と、たまに訪れるお客さんがいた。

住人達は結構、癖が強くって、タフな過去を持った人が多かったけど、僕も含めてなぜか週末には禅寺生活の憂さ晴らしをしなくっちゃいけなくって、なぜか禅寺の近くにある、ディスコにみんなで繰り出してた。それは禁止されていることじゃなかった、さすがにアウグいかなかったけど、僕らはけっこういいお得意さんで、そのディスコの従業員たちとも仲が良かった。

僕はそのディスコの経営者から、フランス語を習った。禅寺の世界各国から来る住民の共通語は、英語だったから、ディスコが、僕のフランス語教室だった。女の子をナンパするときは、こういうフランス語を使うといいとか、そういうことも、すごい上手に教えてくれて、本当にその通りにやると結構うまくいった。彼は、いい感じのフィロソフィーを持ってて、金と女がほしい時は、本気で脳みそのある部分を使ってある部分を使うんのをやめるんだとか、禅寺の和尚よりも確実にためになることを言っていた。それに成功してたし、僕の人生でも、そのフィロソフィーは今でも役に立っている。


数か月たって夏に近づいたころ、日本人の女の子(って言ってももうそんな年じゃないけど)がやってきた。日本人と言っても、10年以上アメリカとか、アフリカとか世界各国を移り住んでいたし、英語も上手だった。往々にして、アジア圏から来る子は、本当に禅寺生活が必要なのかな?って思わせるような、どちらかといえば幸せそうな子たちだった。その彼女も、御多分にもれず、ごくごく普通の優しそうなしぐさを持った子だったし、そんな彼女の肌の下に、苦しみが隠されているかなんて、ちょっと想像できなかった。

癒される立場というよりは、癒す立場に彼らはいつも回った。彼女は料理も、プロ並みにうまくって、基本的にはキッチン配属だったけど、朝とか、時間のある時は、雌鶏の世話もすることになった。彼女の来たおかげで、食事の質はすごく上がって、おいしいもの、食べれるようになったにもかかわらず、食費もすごく低く抑えるようになったので、アウグもすごく歓待していた。

日曜日の禅寺ツアーに、彼女の料理を食べるのを目的のみでくる人も増えた。そんな舌の肥えたベジタリアンたちは、彼女の作るちょっとオリエンタルな、シンプルそうに見えて実は、手のすごく込んだ料理をむさぼってた。センスが良かったから、このワインにはこの食べ物とか、きちんとメニューも組み立ててくれて、禅寺を潤わした。

僕も彼女と一緒に仕事するのは好きだった。すごくオーガナイズが上手で、控えめに、ごくごく申し訳なさそうに変更すべき点とかを言うんだけど、それはいつも、すべてドンピシャで彼女の言うとおりにしておけば、仕事は面白いほどはかどった。こういう風に言うと、すごく、人種差別になっちゃうかもしれないけど、欧米から来る人に比べると、オリエンタルな人たちは、トイレとかもすごくきれいに使うし好きだった。

フランス人の女の子は、タンパックスの使ったのとか、そこらへんにほおりなげておいて、それを注意すると、「ねえあなたって、もしかして、女性蔑視?女性ってこうやって毎月血液を出して、いつかはらむ日を待ってるのよ、知ってた?あんたのお母さんもそうやって苦しんであんたを産んだわけ、わかってる?」とか言われちゃうし、その理論はなんか違ってるのは、僕にはわかってたけど、理論的にも僕の英語力もおよびつかないのもわかってたから、あえて異議は唱えなかったけど。それにしても、オリエンタルな彼、彼女たちは、僕にとってはとても好ましい禅寺メイトだった。


彼女はほかの、もっと由緒ある禅寺にもいたことがあって、5戒律を守り通してきた人だったから、うちに来て、ミツグから、食前酒を進められても最初は断っていた。ミツグは「ワインはフランスの血だから、フランスにいるなら飲むべきだ」とむちゃくちゃな理由をつけて、しきりに勧めて飲ませていた。だから、飲みたくはないけど、郷にいては郷に従えで、申し訳なさそうに、お酒も彼女のうけてきたしつけの結果飲んでいた。


ミツグは雌鶏を、もっとたくさん飼いたいと思っていた。だから、自分で鳥小屋を作り始めていたんだけど、ある時、ふと気が緩んでのこぎりの歯で、自分の指まで切っちゃって、救急車が来たりして大変なことになってしまった。あのあたりから、この鳥小屋には、何か、不吉なにおいが漂っていたのかもしれない。

彼は根っからのポジティブな人だったから、神経を切断しちゃって、大変な手術をしたのにもかかわらず、「これでわずかながらお金ももらえちゃううえに、好きなとこに駐車できる」とか言って喜んでた。その後、そんな災難にもめげず、鳥小屋を増築してあと5羽増やした。すでに20羽以上いたから、その5羽を加えると30羽ぐらいになった。最初は、おびえていた5羽も、そのうち慣れてきて、どの雌鶏が後から来たのか、もう分からないくらいになってきた。僕も実は雌鶏たちは好きだったから、その30匹をすべて見分けることができたし、性格みたいなのも見抜いていた。


ある時から雌鶏たちが病気になった。たぶんアウグが加えたあの5羽の中の1羽が病気だったんだと思う。病気は広がって、瞬く間にすべての、雌鶏がそのみすぼらしい病気にかかってしまった。それに、卵も産まなくなっていった。まあ、あの見た目の悪いところどころに羽が取れた雌鶏から取れた、卵は食べてよかったのかもわからない。僕と彼女は、できる限りのことをした。一匹ずつ捕まえて、アーモンドオイルや石油を使って、脚を掃除するのから始まり。彼女はいろいろ調べて、自然療法で、病気に効く食物をあげたり、香草のお茶を煎じて飲ませた。毎日水浴びをさせたり、あったかいお湯につけたりかといえば、冷たい水で洗ったりいろいろ試した。

それからホメオパシーとか薬草の治療とかも、お金の続く限りしたし、最終的には、獣医に見せて強い抗生物質も使ったけどダメだった。あらとあらゆることがうまくいかなかった。雌鶏は日に日にみすぼらしくなっていったし、どんどん羽も抜けていってしまって掃除も大変だった。彼女もしっかりしているように見えたけど、けっこうめげたし僕も悲しかった。

雌鶏は、この禅寺の目玉だったから、お客さんたちも喜んで見物していったんだけど、それが今となってはどう見ても健康ではない雌鶏を見て、もう誰も喜ばなかった。これが、僕たちの仏教の考えです。この雌鶏のように、皆死にます、病気になって苦しみます、だからどう生きましょう、なんていう、本気の話を誰も求めていなかった。

週末に、ちょっと座禅をしておいしくって、体にいいものを食べて、リフレッシュして、明日のタイムカードを押すために、帰っていくのが彼らの目的だった。禅寺はその上ではよく機能していた。

彼女は「1日3回雌鶏のために祈ってください」っていうはがき大の紙に、手がきでメッセージを書いて、雌鶏の絵も上手に書いて、住民にもお客さんにもディスコの友達にも配ってた。僕らはそういう見えない力も信じてたし、希望は捨てたくなかった。


夕飯の前に、僕と彼女がミツグから呼び出された。ミツグはあんまり、そうやって、決まった人を呼び出すことはないから、ちょっと驚いたけど、僕も彼女もちょっと緊張してミツグに会いに行った。彼はもう鳥小屋に、顔を出すことはなくなっていた。


「あのねえ、あの雌鶏たちを、この袋に入れて、あのいつもの森まで行って、逃がしてくれる。」
と言って、僕たちに大きな麻袋をいくつか渡した。僕たちはいつも、煮炊きをするための薪とか、木炭とかいろいろなものを、たくさん運搬するときに、その麻袋を使うんだけど、まさか、雌鶏を入れて運搬するとは想像したことさえなかった。


僕たちは、その後何をどう話したかは覚えてないけど、食事をみんながしている間に、それを執行しようって決めた。実際に彼女も僕も、あの袋の中に、おとなしく雌鶏たちが収まるのか、その雌鶏たちを車で簡単に運搬できるのか、疑問に思えることは山ほどあって、早く執行したかったから。

ちょっと、日が影ってきた頃、フランスの夏はなかなか暮れてくれないから、麻袋を抱えて、一羽一羽、雌鶏を袋に入れた。一袋に4羽ずつ入れた。最初は、いれるのは難しいのかなあと思ったけど、きっとすごい苦しいだろうと思ったけど、雌鶏の入った袋が5袋出来た。

その頃には、けっこうの雌鶏が死んでいて、19羽になっていた。雌鶏の入っている袋を、車のトランクに4袋いれてそれ以上は入らなかったから、最後の1袋は、車の後部座席に突っこんだ。それから、僕たちは、車に乗って、森まで行った。

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森までに行く途中、誰にも会わなくって本当によかった。下手に村の住人とか、ディスコの従業員とかに会って、こんな時間に森に何しに行くんだ、なんて聞かれても、答えようがなかったから。僕が運転していって、目的地に着いた時は、あの長い夕暮れも終わりそうな時間だった。


フランスの夏の森の夕ぐれは、言葉に尽くせないほど美しい。うっすらと、ムスクのにおいが立ち込めていて、日が暮れるにつれて、木漏れ日が、緑色の木漏れ日が、森にスポットライトのように、入ってきてほんのり霧がたち始める。そんな美しい時間に、僕たちは、黙々とアウグから言われた作業を始めた。1袋ずつ麻袋を開けて、雌鶏たちを逃がすのだ。

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最初、雌鶏たちは、戸惑っているかのように、僕たちの周りを取り囲んで離れなかったけど、すべての袋を開けたころには、もう既に、遠くに行ってしまった雌鶏もいた。もう取り返しはつかなかった。すべての雌鶏を、また袋に入れろなんて言われても、もう出来なかった。不思議な光景が目の前に広がった。森の中に、あの醜い雌鶏が、ところどころによちよち歩いていた。

ミツグからそのことを頼まれるというか、命令された時から、僕たちに話すことはなかったから、黙々と僕たちは作業をした。まるで、農業に長いこと従事している老夫婦が仕事するように、僕たちのパートナーシップは完璧だった。僕らはその時何も話さなかったけど、まったく同じことを感じていた。話さなかったから、余計そういう風に感じたし、それはまったく絶対だった。


僕たちは最初に憤りのない怒りを感じた。それは、とてつもなく大きなもので、ちょっと絶望的なものだった。どんな命でも決して粗末に扱ってはいけない。それは、どんな状況でもピースフルな禅寺だって、すごく難しいことだって十分わかっている、でもそれはしちゃいけないことなんだ。しちゃいけないことは、しちゃいけないことだ。

もう、卵を産むような、創造的なこともできなくっても、楽しそうにえさをついばんだりして喜ばせてくれたり、お客を癒したりできなくっても、病気になってしまって、迷惑しかかけなくなってしまっても、決して命をぞんざいに扱ってしまってはいけないんだ。そして、僕たちは、僕たちの命もまったく同じものなんだって感じたんだ。

こんな辺鄙な禅寺まで来てるからには、やっぱり、彼女も僕も命を絶ちたいって思ったことがない、なんて言ったら嘘になる。そういうことは、幸せそうな顔をしてたってわかる。禅寺のお客と住民の違いは、なんとなく生きてるか、実は死にたいかそれだけだ。

でも、僕たちだって誰の役に立たなくっても、何十年寄り添ったパートナーに裏切られても、思った通りの人生が歩めなくっても、だまされ続けても、何万の夢を失っても、必要な時に気のきいた言葉が言えなくっても、お金がなくっても、失敗だらけでも、何のとりえもなくって、友達もいなくって、家族とけんかばっかりしてて、なおかつ性格が悪くって、嫌気がさすほど被害妄想の気があったとしても、ありとあらゆることがダメだって、僕らの命は大切なものなんだ。

それは、森に放した雌鶏が教えてくれてた、もしかしたら、こういう最悪な経験って、何かをわかるために起こるのかもしれない。雌鶏たちは、僕らの命の犠牲になってくれた。19匹もいる雌鶏たちは2人の命の身代わりになってくれた。僕らは雌鶏の分も生きなきゃいけない。


僕らは泣いてもいなかったし笑ってもいなかった。ただ、雌鶏たちが、暗闇に遠ざかっていく姿を見守っていた。あのスポイルされた雌鶏たちが、この山の中で、何か食べ物を見つけられたかとか、他の凶暴なキツネなんかから、どれだけ逃げとおせたかなんてわからない。
そのために祈りもしなかった。そんな余裕はもうない、だって今度は僕らが、生き続けなければなかったから。


そのあと、彼女と話す機会はなかった。数日後に、僕が思っていたとおり、旅立っていった。女性っていうのはいつも行動が早いから、僕は出遅れた気がしたけど、そのままなぜか数週間禅寺に残っていた。そして、食事がおいしくなくなって、それが気にさわるようになった秋口、僕は僕の生まれ育った町、ローマへ帰ることにした。誰も挨拶せずに夕暮れに旅立った。

みんなが食事を食べている時間に。僕は生きなくっちゃいけなかったから。彼女も地球のどこかで生き残っているって、僕は知っている、だって、あのめんどりたちから命を受けついだのだから。


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