かの文字を追う息子の姿
「お母さん、そうやって怒りを表に出すのやめてくんない?」
つい数日前、私がヒロに発した言葉をそのまま本人に返された。彼のカウンセリングに付き添った帰り、チェーンのカフェで軽めのランチをとっていたときだった。
私はここのところイライラしていた。その日の朝も不機嫌で、まともに笑うことができず、ヒロに対してそっけない態度に徹していた。
「フリースクールに行って頑張りたい」と決めたヒロが、ほんの数日行っただけで「うーん」と起きられなくなったのは数週間前。しぶしぶ行く日もあるが、たいてい「えー」とものすごい形相で頭を掻きむしり、「いやなんだけど」と、とげとげしい感情を全方位にまき散らす。
「嫌なら辞めればいい」
本当に辞められたらどうしよう、と思いながらヒロに告げる。おそらく、少し尖った声色になっていたと思う。
そう言われても、学校に行けず、フリースクールに再起をかけていた彼は、辞める決断ができないでいる。ただ、行きたくない気持ちだけが確かにそこにある。
「どっちでもいいけど、怒りを周囲に撒き散らさないでほしい」
私は数日前にそう告げたのだった。
フリースクールに行かないことを責めたくない。私は自分の心の平穏を保つため、保険として他の選択肢を持っておきたかった。
「塾に行く? マンツーマンとか少人数制とかあるし」
「うーん、どうしようかな。考えとく」
のれんに腕押し。提案して手応えがないとひどく消耗する。
「本を読んだほうがいいよ。何でも自分で調べたりできるから」
「やだ。面白くなさそう」
これまで、いくつの提案が無下にされてきたのだろうか。私が情報を与えて、彼が選ぶ。それが最適だと思ってやってきたが、ほとんどの提案を却下される私自身の気持ちを置き去りにしていたのかもしれない。
「今日のカウンセリングのあと、フリースクール行く?」
「今日は行かない」
短時間なのだから、終日行くよりマシなはずだ。こういう日にこそ行けばいいのに。私はまた、ひどく消耗したのだった。
いくつもの小さな落胆が積もって視界が狭くなっている感覚。クリニックに行く途中もあまり喋れず、電車の中でずっと本を読んでいた私に、ヒロは怒りの表出を感じとったのだろう。私自身も、イライラを抑えられない自分に嫌気が差していた。
「怒りを表に出すのやめてくんない?」
彼の言葉はまったくの図星で、返す言葉がなかなか出ない。
「あなたみたいに怒りを出してるんじゃなくて、出さないようにしてるんだけど」
苦し紛れの言い訳をした。ヒロは少し驚いたような、同情するような顔をして「そっか。それならいいや」と言った。
「出ようか」
私は相変わらずうまく笑えず、自分のトレイだけを持って食器を片付け、店を出た。ヒロも自分の分を片付けてあとから店を出てきた。
「ごめんね」
少しだけ素直になれそうな気がして、今しかない、と告げた。ヒロは「ああ、うん」とだけ答えた。
「アイス食べようか」
アイスクリームショップを指さしてそう言うと、ヒロは驚いた顔をする。外食のはしごなんて、普段はあまりしないからだ。ヒロは抹茶で、私はレモンシャーベット。それぞれ受け取ってから小ぢんまりとした席に座ると、「ん、うまい」と言った後「食べる?」と聞いてきた。私たちは甘味と酸味を楽しんだ。
「本はさ、」私はバッグに入っていた『博士の愛した数式』を取り出した。「本屋に行って自分で選ぶんだよ。そうするとだんだん選ぶのが上手になって、好きな本とか、面白い本とかが見つけやすくなる。選ぶ時には、まずここを読む」
本の裏表紙を見せた。ヒロは声に出して読み始めた。
「[ぼくの記憶は80分しかもたない]博士の背広の……」
「そで」私は漢字の読み方を教えた。
「袖には、そう書かれた古びたメモが留められていた」
書き出しがなんと魅力的なんだろう。ほんの数センチ程度の長方形の中に、物語の魅力が詰まっている。
「数字が博士の言葉だった。やがて私の10歳の息子が加わり……」
ヒロは唯一、数学が好きだった。私や夫が数学好きなのも影響しているかもしれない。そして、彼は12歳。自分と同世代の子どもが出てくる数学のお話。その説明が、彼の中に流れ込んでいくのがわかった。
「読んでみようかな」
そのままページを開き、文字を追い始めた。ときどき漢字の読み方を私に尋ねながら、ページをめくる。
「わかんないんだけど」
やはり、大人向けの話は難しいのだろうか。そう思ってヒロが指さした場所を見ると、「ルート」の説明が書かれていた。平方根はまだ習っていない。私はスマートフォンを取り出し、ペンツールで簡単にルートの説明をした。
「ああ、なるほどそういうことか」
目線は本に戻り、読み進めていく。それ以外はちゃんとわかるってことだろうか。
私も夫も、この本が好きだった。私はずいぶん前に処分していたが、夫の書棚にはまだあった。今日、ヒロが読むことを少し期待して、バッグに入れてきたのだった。私と夫が何度も追いかけた文字を、ヒロが同じようになぞっている。なんという不思議な体験だろう。
私はバッグからハンカチを取り出し、少しだけ目じりを拭いた。
※ほぼ実話ですが細かな設定はフィクションです。
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