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私は、世界に願われて生きている

日々、いろんなことがある。
生きていくって大変だ。

例えば子どものときは、
ただ目の前の事象に反応する自分の感情だけで、
社会とか周りのことは何もわからないし、
そもそも何も考えていないし、
当然どうでもいいし、
ただ生物として、今を生きることに純粋だったはず。
自分が現代社会の枠組みの中でどうやら生きていると気付いた時から
今までずっと、そしてもちろん今も。
私という生物はどう生きていけばいいのか、
何のために生きているのか、なんて
おこがましいことを真剣に考えたりして、
時々苦しくもなる。

まるで、自分が選んで生まれてきたかのように。
まるで、自分の力で人生を切り拓いて生きてきたかのように。
まるで、自分で自分の人生をコントロールできるかのように。

あるときから、不安になる。
ただ生きていることが不安になっていく。
これまでただ生きていたのにも関わらず。
私は生きているに値する人間なのか、
何かの役に立っているのか、
誰かに認められている存在なのか、
そういう人間になる見込みがあるのか。
何もせず、何の意味もなくただ生きていてはダメで、
何かを成さなければいけない気がしてくる。
他人や社会の評価軸が何より重要で、
社会は、そんな軸を養う教育や価値観に溢れているから。
ちなみに、自分の感性による軸は
「わがまま」「常識はずれ」などの言葉で諌められる。
社会の一員として生きていくためには、
社会と調和しなくてはならず、
自分の客観視することは大事だと言われるし、
実際、そうなんだろうとは思う。
「他人に迷惑をかけてはいけない」という言葉や、
長所・短所、得意・苦手、通知表の評価、などいろいろ、
他人と比較して、自分を客観視するからこそ、
犯罪を抑止するなど平和が保たれると同時に、
自分という人間を成長させることもできる。

でも…、、成長?

私たちは、ふと気付いたら生きていただけ。
今までずっと生きていたこと、
今も生きていることを認識しただけ。
この場所で、この家族で、この環境に、既にいた。
私が決めたわけじゃない。
私が決めて選んできたように思わされてるだけで、
全てのことは私が決めたことではない。
「どうせ決められたことだ」「私にはどうすることもできない」
という消極的な気持ちで人生を生きないために、
自分で自分の人生はどうにかできると思わされてるだけ。
それでいい。それがいい。
私はそう思って真剣に魂を磨いて生きていきたいから、いい。
でも、不安にまでなるくらいなら、
生きる自信がなくなるくらいなら、
思わされすぎ。
自分の人生、どうにもできないってことを思い出した方がマシ。

私たちはただ生きていていい。
“生きてるだけで丸儲け”。
生きていることを認識する前から生きてたんだから。
なんかわからないけど命をいただいてた。
親に望まれ、いや、仮に親には望まれてなかったとしても
何か大きな存在が望んで、私は命をいただいて今ここにいる。
日々のいろんなこと、
楽しいことも、嫌なことも、なんでもないことも、
全てがいただきもの。
まだ生きていていいと許されてるから生きてる。
身に起こる全てを享受してもいいと許されてるから生きてる。

“あなたが無駄に過ごした今日は、
昨日死んだ誰かが死ぬほど生きたかった明日”
なんて言葉があるけれど、
いや、無駄なんてないし。無駄でいい。
そういう時間も含めて、生きていてOKと許されてる。
それが生を受けたということ。

今を存分に味わうだけでいい。
世界に願われて今も生きている。
自信を持って、一緒に生きていこう。

※…と思って数分後には、
あーやばいこのままじゃだめだ、何かしなくちゃと、
無用で無駄で無意味な焦りを感じてしまう私ですが。

インスピレーションをもらった本↓


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