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事実は小説よりも奇なり

 僕は別に一人なんかじゃない。むしろそれなりに社会的な生活を営んできた方だった。最低限の社交性を持ち、最低限の顔で、最低限の社会的営為で、僕はまさしく平凡そのものである。少なくともそう思って生きてきた。でも、そんな僕でも一つだけ、忘れられない過去というものが存在していた。あの日あの時、今思えば、僕のこの「記憶」というものは、額縁に飾られ続けた「名画」なのかもしれない。あるいは、標本化された「植物」だ。その「記憶」は長い間、僕の養分を吸収して寄生していたのかもしれない。だから、今日は僕のその話をしようと思う。

 その日は、僕にとっては本当に「暑い」夏だった。僕の目には世界が色付いて鮮やかだった。中学の頃は、独りよがりの自分像を保ち続けて、それをもって僕の名誉かのように振る舞っていたが、それは演劇で言えば人形なしでは立ちえないような、そんなか弱いもので合った。それを僕はあたかも一般的なものとして認識し、それを実践しようとしている愚かな存在であった。そしてあの「暑い」日に至り、僕はその世界で一番強い存在なのではないかというある種当然の感覚に陥り、それを楽しんで沈んでいく存在であると運命づけられていたということを今になって知る。とにかくあの夏に僕の全ての世界が変わってしまったと言えるだろう。

 その日、僕は、地元の夏祭りに行っていた。その時は仲の良い学友とともに、前夜祭を終えた次の日であり、その日は当時の僕にとっては天下分け目の大戦であった。というのは、恋焦がれた相手との祭りであったからである。僕は、彼女を一人で誘う勇気なんてものは、虚勢を張っていたのに持ち合わせておらず、学友に頼んで大きなグループで行ったことを覚えている。
 彼女たちと集合したのは学校だった。祭りの開催場所は僕たちの高校から程近かったので、徒歩にてそこへ向かった。そして祭りの会場に入ると、そこには人が溢れており、全員でまとまって歩くのすら困難であったような気がする。地元ではそれなりに顔が広かったので、祭り会場に着くや否や他校の友人に声をかけられて応対したことを覚えている。あまりにも僕と最も仲の良かった学友が声をかけられるものだから、ともにいた学校の同級生に友人が多いことを指摘された時もあった。僕はそんなことは当時頭になかった。なぜなら彼女がいたからだ。僕の頭の中にはもう彼女しかいなかった。彼女が祭りを楽しんでいる姿をみるだけで僕は本当に満足であった。これ以上に心が満たされたという経験はおそらく未だかつて存在しないであろう。青い時代の僕の記憶に唯一の彩を持つそれは、脈々と自分の中の記憶に根を張っていることを今実感する。
 その後の話だった。僕らが毎回友人と応対するたびに止まるこのグループの進行は、ある出来事によって大きく動き出す。それは、彼女がはぐれてしまったということである。僕は必死に探した。幸いすぐ見つけることに成功した。重要なのは、僕はこの後の記憶が鮮明でないということである。僕の記憶では、彼女は僕の裾を掴んでいた。あの時の彼女の愛らしさということに関しては右に出るものはいなかった。しかし、それはもしかすると僕の都合の良い記憶の改竄だったのではないか。僕は、もしかすると自分の都合の良いように記憶してしまったのかもしれない。なぜそう思うかというと、その後の流れがあった。僕と彼女の関係はそこで最高潮を迎えた。僕のシナリオでは、その後にある学校祭で思いを告げ、そこで晴れて恋人としての関係性を構築したいと考えていた。しかし、僕の思い通りにいくことはなかった。関係は学校祭へ向かうごとに冷めていき、そして、最終的には結ばれることはなかったのである。この短時間での形成逆転を説明するのに、実はあの時の記憶すら「虚像」だったのかもしれないと近年思うようになっていった。この事件は、僕にとってある種彩を残したまま脳内にこびりついていて離れない。今でもこのことを良く考える。でも一向に答えは出ないままだ。
 そして、この事件から、僕は二つの結論を今出している。一つは、人生は選択の連続であり、その中で僕たちは適切な選択をしていかなければならないということ。もう一つは、人の認識がいかに限定的であるかということである。あなたは、自分がよく記憶しているということを本当によく記憶していますか?バイアスがかかり、実は都合よく改変されている可能性があるのではないか。あの時に僕にとって夢のようであると認識していたある種の認識空間というのは、本当に夢の話だったのかもしれない。

風の噂でその彼女が婚約したということを聞いた。今更そのことを聞いて思い詰めることはない。しかし忘却のかなたにあるという表現をしてしまえば嘘になる。このような「感情」のはざまで僕の思考は、今まで書いたことのようにぐるぐる回っている。今では本当の事実を知る、あるいは知ることができる手段はない。

最後に諸君にこの言葉を送ろうと思う。

「事実は小説よりも奇なり。」

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