見出し画像

仏教を学ぶ理由。目に見えないものを言葉で表現してもっと分かり合いたい。自分と、世界と。【自己紹介です】

大学で仏教の研究をしています。

仏教と一口に言ってもその歴史や教えは膨大すぎて、「仏教知ってます」なんて畏れ多くて冗談でも言えませんが、主に初期(原始)仏教という根本の部分を知ることから、日々教えをいただいてます。

お釈迦様の教えって今でこそ経典や文献で残っていますが、初期は全部ぜーんぶ口伝えなんです。彼の言葉を弟子たちが覚えていて、没後にみんなに披露したことから伝承が始まります。
仏教の教えは壮大な伝言ゲームなのです(仏教関係者に怒られそうですね)。
これは

悟りの真理を言葉で伝えた

ということですよね。
当たり前の事やん、と思われるかもしれませんが、目には見えない事象や心の働きについて正確に言葉にすることは容易ではない。その難しい作業を経てお釈迦様は人に救いの道を示しました。
このお釈迦様の在り方へのリスペクトが、私を仏教学に導いてくれました。

・・・・・・・・・・・・・・・

10年ほどヨーガ講師をしています。
ヨーガは同じくインド発祥で、仏教に繋がる側面はありつつも更に歴史を遡り、バラモン教の奥義書から脈々と受け継がれてきた「心の作用を死滅する」ためのメソッドであります。
こちらも教えが膨大すぎて「ヨーガ知ってます」なんて畏れ多くて冗談でも言えませんが、私は主に身体調整(よくある現代的ヨーガ)や瞑想(ヨーガニドラという、脳波をコントロールして心身を静める誘導瞑想)を通して皆さんとヨーガを共有してきました。

しかしなかなか「共有しきれない」という残尿感(言い方よ)を日々感じていて。
学び得た僅かなヨーガの叡智さえもお伝えしきることのできないもどかしさ。

その内キャリアコンサルタントや傾聴カウンセラーとして学び実践する機会をいただき、徐々に「ヨガで1対複数」から「カウンセリングで1対1」のセッションに変化していきました。

カウンセラーとしてはじめて他者と「心」について深く向き合わせてもらい、残尿感→ああスッキリ!(いや汚いて)という感覚を得ることができたのです。

・・・・・・・・・・・・・・・

しかしここで第二の残尿感(しつこい)。
気づいて表現したいことに対して言葉がついてこない。元々のボキャブラリーの少なさもありますが、「心」の微細な感じ方や働き方を他者と共有できないことに対して「腑に落ちきらない」もどかしさを感じてしまいました。
そんな折ふと長年抱えていた違和感の正体に気づいてしまうのです。

あれ? 心=言葉じゃなくない?

他者に対して感じていた「それ本心?」という違和感を、元々は自分の言葉に対しても感じていたのです。共有し合えていないのは「本来の自分・心・言葉」だった。気づいてなかったことに驚愕ですネ。

よく見せたい強がり、相手に対する気遣い、怒られたくない嫌われたくない恐れ、事なかれな無関心、何かをコントロールしたい執着、傷つくのではという不安…

などなど無意識で起こる心の働きから、真実ではない言葉の表現をしていたのです。そしてこれは皆に共通することでもあります。
別の記事で何度も書いていますが、外側から与えられた「概念=思い込み」によって「正しいであろう」言葉を発するクセが無意識についている。
その度に「本来の自分」は違和感を覚えていたのです。本当はこう言いたい、これを選びたい、ここに行きたい、この感情を味わいたい、こうやって生きたい。

この「心≠言葉」を「心=言葉」にしてあげたいと思ったのです。
まずは自分に、ひいては他者に。

・・・・・・・・・・・・・・・

昨今、自分の魂に沿った生き方をするための方法は本当にたくさんあります。

宗教学、心理学、哲学、量子力学、脳科学、経営学、心身医学、引き寄せの法則、潜在意識コントロール、ノンデュアリティ、スピリチュアルなど
各スペシャリストの皆さん、それぞれ説かれている道筋は違ってもゴールは一緒で、人の数だけその方法はあるんだなあ、面白いなあ、皆さんすごいなあと思います。

私の場合は共有できる手段の一つが「言葉で自分と世界を理解する」ことなのかなと。
直感、魂、空、真我、源、神様、宇宙、高次、内在、言い方は人それぞれですけど、その真実を私たちが生きているこの世界において正確に「言葉」に繋げること。
「感じること」を「腑に落ちる言葉」で表現すること。



自分へ、世界へ、言葉で表現することを知ってから、私の人生は格段に幸せになりました。

自分で自分を理解して、認めて、望みを叶えて満たしてあげられる。周りに何らかの見返りを求めないことで正直な言葉をアウトプットできる。こんな当たり前のことがこの時代においてはとても難しかった。「今ここ」ではなく「いつか」「だれか」のために我慢や犠牲を払うことがスタンダードな生き方だったから、私たちは全ての瞬間を幸せに満たすことに罪悪感を覚えてしまった。本当の望みを言葉にすることができなくなってしまった。

けどね

お釈迦様ですら、「まず自分」なのです。
家族を権威を持ち物を全て捨てて、一人修行に励んで自分の心を知って「苦」から解脱するための悟りを得たのです。そしてなんとね、悟ったあと、お釈迦様は人生を終わらそうとしたのですw。「もう輪廻から抜けるから生きててもしゃーない」って。そしたら梵天様があらわれて「いやいやみんなに伝えなさい、難しいとか躊躇してないで言葉にしなさい」って言われて、渋々(か知らんけど)仲間たちに伝えるところから、ゆくゆくは全世界に拡がっていくことになったのです。

だから私たちも「まず自分」。
自分を理解してはじめて、感じたいことが見えてくる。「感謝」「幸せ」「豊かさ」「喜び」「楽しみ」「平和」「穏やかさ」「調和」「中道」「無」「ありのままの価値」自分が世界に伝えたいと思うそれが、自然と溢れて周りに拡がっていくのです。

・・・・・・・・・・・・・・

私自身そのための方法や言葉を知るために、仏教を学ばせてもらっています。
学びは一生続きますが、その道すがら、たくさんの人と共に学び、共に「ありのまま生きる幸せ」を分かち合っていくのです。
どうぞお付き合いくださいネ。

まずは慈愛。自愛。
今日は何して幸せになりますか?


この記事が参加している募集

#自己紹介

228,904件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?