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❝アートは役に立つ❞ へのささやかな反抗と、❝役に立たないアート❞ へのささやかな擁護

1、アートは役に立つ論が独り歩きすることへの違和感と、ちょっとした苛立ち

デザイン思考などと並べて論じられるアート思考とは「ゴールを設定せず、プロセスを重視する」点で他と区別されます。課題発見から解決策までを視野に入れるデザイン思考とは違い、アートには特に「当たり前とされていることに問いを投げかける」という役割を期待されている節があります。

この役割は、まぎれもなくアート活動が生み出すインパクトの一側面であるし、アーティストの視点が創作活動以外にも応用できることを強調することで、アーティストの活動自体を価値あるものにするために役立ちます。しかし、「アートが役に立つ」という側面ばかりに注目が集まりすぎてしまうと、関係者には一抹の違和感が芽生えるように思います。


それは、目的やゴールが決まったアートプロジェクトは、果たしてアートなのか?という違和感。

世の中には、「地域活性化」や「ケアを必要としている人たちの癒し」、「コミュニケーションのきっかけ」や「子どもたちの成長」などなど、アート活動にさまざまな効果を期待する取り組みがあります。こうした取り組みの中では、プロセスの記録や説明の仕方をちょっとかけ違えると、「期待されている効果を出すこと」がアーティストの活動のゴールとなってしまい、そのゴールを達成できたか・できなかったかで、アート活動の価値が決められてしまうことが起こり得ます。

そういう枠組の中では、予期しなかった偶然を楽しむ視点や、むしろ何も生まれなかったとしても、成果がなかったこと自体に価値を見つけることが難しくなります。

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創作活動とは、もしかしたら失敗するかもしれないし、もしかしたら上手くいくかもしれない、という曖昧さを行き来する活動です。だから、その活動自体の価値はいつも後からしか意味づけできない

あらかじめ企画書の中で「アーティストが廃屋に絵を描きます。カラフルな色彩で街中ににぎわいをもたらし、通行人が集い、対話が生まれることを目的とします」と宣言してしまうことはできないのです。そんな風に出口が決められたアート企画なるものを、引き受けてくれるアーティストっていますかね?

2、そもそもアーティストとはどういう人たち?

アーティスト=アート活動をなりわいとする人々、というのは、一体どういう人たちなんでしょう。

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私の考えでは、まず不可欠なのが突出した才能。その人が何かをしているだけで、何か心が惹かれる、見入ってしまう、自分も触発される、そんな力を放つ才能です。アーティストと呼ばれる人たちは、そういう才能をもとにした創造活動をなりわいとしています。

彼らの創造活動はいくつかの技術によって支えられていて、それぞれの技術は世の中の他の仕事に応用可能なものもあります。例えば、筆の使い方を教える教師としての仕事。色彩を使ったセラピーの仕事。ライブペインティングで人を楽しませる、エンターテイナーとしての仕事。


そんな考えを踏まえつつ、コロナ禍の第一波まっただ中の頃、アーティスト・スキルの因数分解なるものをやっていました。このセッションの中では、アーティストとして活動している人たちを支える技術を分解し、他の分野に応用できるかどうかを一緒に考え、「創作活動では食っていけない」となった時期を何とか乗り切ろう!ということを目標にしました。

当時はいきなり数ヶ月分のスケジュールがゼロになって、なかばパニック状態のアーティストさんたちにお会いしましたが、話していくうちに、そもそも皆さん無意識のうちに自分の創作を支える技術を生かしたお仕事をされていて、私なぞがアドバイスできることなど全くなかったのでした(笑)。

3、あえて青写真を描かない、「あそび」の価値の再発見

上の図に描いたように、アーティストの創作活動を支える環境には「あそび」が絶対に必要です。「あそび」のある環境下では、ああでもない、こうでもないと試す中で、失敗することもあれば、思いがけない成果を得られることもあるという試行錯誤の積み重ねを可能にしてくれます。

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アートを何かに役立てようとするプロジェクトには、この「あそび」の環境が不足しがちです。なぜならお金を出してくれるパトロンにあらかじめ青写真を見せて納得してもらう必要があったり、純粋に「役立つ」アウトプット(・・・それはほとんどクライアントワークなのではないか?と思うほどの精度での仕事)を期待されていたりして、失敗は許されず、必ず成果を出さなきゃいけないから。


以上の考えから、去年はあえて未来を設定しない企画をつくること取り組みました。何かの「ためにする」アートでなく、何かとアートの出会いをさまざまに実験し、できことを観察し、その意味や価値を探すこと。

2021年夏にほっちのロッヂで実施したアーティスト・イン・レジデンス企画「クリエイティブ・カルテ」では、医療者とダンサーが出会った時、何が起きるかを実験させてもらいました。

身体表現を通して世界と対話するダンサーが、在宅医療の現場で全身を使って空気を感じ取り、誰かの人生と共にある医療者たちの感性とシンクロしていく面白いプロセスでした。


その後に続く「ケアの文化のポートレイト」という企画では、写真家・清水朝子さんのフィルターを通して、悲喜こもごもを秘めた人間としてのケア従事者たちの営みを探求しました。

視線や表情、ちょっとした手つきから、ケアに込められた思いが伝わってくるのが不思議で、改めて、人間はことば以外の情報を通して心を通わせているんだなぁと感じました。

いずれの企画も、「最終的にこうなったらいいなぁ」という目論見はありましたが、最初からそれを目的として誰かに伝えることはなく、常に先の見えない状態の中で模索していくことを心がけるようにしていました。あとは、その結果出てきたものをどう解釈して、伝えていくかが大事なんじゃないかと思っています。


つまり、あそびが大事。アーティストに思う存分あそんでもらう、そういう企画をもっと試していきたいです。

アートはあらかじめ青写真があって、それに沿って作品をつくるというやり方をしない。アーティスト自身にも、じぶんがやろうとしていること、つくろうとしているものが、あらかじめ見えているわけではない。これは、あらかじめ未来に明確な目標や意義を設定したうえでそのために何かをするという、そういういまの社会であたりまえのことの進め方とは違う活動の仕方である。…[中略]集団を、内部に向けて集結させるのではなく、未知のものへと開いてゆくこと。

―― 鷲田清一『素手のふるまい』(朝日新聞出版、2016年)pp29-30

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