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芸術家ゾーンには入れないけれど。

10月からの長いスパンにわたる大型案件が、昨日すべて終わった。

心からほっとした、としか言いようがない。

毎年恒例のことで、少しずつマイナーチェンジしつつも、この期間に召集したチーム全員で作業にかかりきりになる。

一息ついてあたりを見渡すと、秋が終わりクリスマスも正月も終わっていた。それどころか、もう、ちょっとした初春を感じる時期に入っている。

こんな多忙な時期でも、コンスタントに毎日何か書いている自分が理想なのだが、実際は納期のあるものも出来る限り削ぎ落として、最低限の入稿案件にしか手をつけられない。

根気も努力も足らないが、そもそもの性質として自分は芸術家ではないのだなと、つくづく思う。

さまざまな納期と自分の力量、モチベーション、体調、プライベートなど、全体のバランスをとりながら、できないことは躊躇いなく削ぎ落としてしまう。

朝ドラと大河ドラマを視聴し続けていることは、以前に数回書いてきた。

ことに朝ドラは毎日のことで、ただ視聴するだけでもそれなりに根気がいる。が、15分という時間は、どんなに忙しくても捻出できる、ちょうどいい時間だ。

「スカーレット」は、見ていて安らげない。

決して、明るくもないし、華やかな衣装や舞台も出てこない。いろいろなことが、主人公の明るさと愛嬌で結局なんとかなってしまう、安心な朝ドラ王道ストーリーではない。

けれど、見てしまうのだ。細かい描写がヒリヒリと感じられて、うますぎて心がヒリつく。

主人公の喜美子は、父母・姉妹・夫、貧乏といったさまざまな境遇に、いつも自分を犠牲にする選択をし続けてきた。しかし、どうしても曲げられなかった選択が、穴窯での陶芸作品作り。

それに至るスロープや伏線は最初からあったものの、たった一つ絶対に曲げなかったことで、その人生は大きく変わってしまった。

その選択が幸せか幸せではないのか、ということはさておいて、芸術家のゾーンに入る時には、勇気がいるし、常識やバランスなど考えてはいられないのだろう。

喜美子は「自分を信じる力が足りない」と、穴窯での創作を反対する夫に告げていた。

自分を信じる力と、そこまで到達するための不断の努力。

いろいろなことが重なってこそ、狂気の芸術家ゾーンに入っていけるのかもしれない。

私はといえば、書きたい時もあれば、書きたくない時もある。今、書いていては、別の案件に差し障ると考えて、書くことを上手に差し引きしてしまうし、ふと別のことを衝動的にしたくなったりもする。

それでも、これでもう止めようとは思わないのが、書くということ。

時々止まっても、また書き始める。完全に止めてしまうことができない数少ない行為なのだ。

芸術家ではないけれど、私という人間の中における書くという行為は、そういう意味では普遍的なことで、生活の中の一つなのかもしれない。

「スカーレット」が描く最後は、一体どうなるのだろうか。喜美子という芸術家の生き方に、まだ目が離せない。











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