嘘と責任転嫁が支える動学的論理の世界

情報が相互に納得に至ることで社会が安定する、ということを見たが、今の世界は、それを不安定化させる競争、駆け引き、意志の押し付けといったことが積極的に進められているだけではなく、嘘と責任転嫁が正当化されるところまで至っていると言える。

動学的論理

これは、動学的論理世界においてはある意味必然性を持っているのだと言える。動学的論理についてまだまとめて書いていなかったが、それは、論理が時系列を追うに従って社会的な前提解釈が少しずつ変化することで、全体として最初の論理と一貫しているか、ということについて確保し得なくなるが、全体として後から前提を調整したりすることによって論理的に見えるようになる、という可変的な論理であると言える。あるいはミクロ的な視点で見れば、論理が人を経るたびにその解釈を少しずつ変え、いわば伝言ゲーム的に論理内容にバリエーションが生じるような状況であるとも言える。個別の目的達成が社会的ターゲットとされた目的合理性社会においては、そこに至る前提と方法論を変化させ、調整することで、社会的には論理が通っている状態を保とうとする、いわば組織の論理的なものが幅を効かせるようになるのだと言えそうだ。

組織における論理的整合性圧力

常に論理的整合性を保とうとする組織においては、前提と方法論については、その内外において気づかれないように注意しながら微妙に変化させ、徐々に調整しながら目的に対する合理性だけは何があっても外さないように情報解釈の微調整が常に行われていると考えて良いのではないだろうか。それによって、スポット的には強力な静学的論理性が常に保たれているように見え、組織内部の人々は常に論理性圧力にさらされ続けることになる。

動学的論理による目的到達不可能性

この動学的論理というのは、この情報微調整が機能するために、現在スポットの具体的目的や、将来的な達成予定目的について常に的確にそれに到達するか、ということは不確定どころか、人による情報解釈の違いや歪み、そして人によって目的が微妙に異なることなどを考えると、むしろその目的に到達するのはほぼあり得ず、良くても近似的なところに到達するのがせいぜいであると言える。

近似的目的による情報戦略性

情報発信を主要業務とするような組織は、その組織の論理を用いて、目的合理性のために個別の情報の論理的整合性については無視して勝手に組織の論理に基づいて情報発信をする、ということになっていそう。それは、特に政治的な情報については顕著なのだが、鞘当ての激しい政治世界では、目的が明らかな情報がそのまま実現する可能性というのは非常に低くなる。だから、情報を出す段階でその情報がどのように変化して最終的な目的に到達するかを計算した上で、実際の目的とは異なった名目上の目的を設定し、それに基づいて情報を出して、その近似性から結果として実際の目的が達成されるようにするということがなされているように感じる。

現実とはズレた情報社会

そして、複数・多面的情報を一つの編集方針に基づいて出すということになると、全体的に目的から微妙にズレた情報が統合的に出るという、なんとも奇妙な情報空間が出現することになる。そして、文字化された認識は強い力を持って伝達されるので、その奇妙な情報空間があたかも現実であるかのように世の中が動いてゆくという薄気味の悪い状況となる。

重宝される嘘と責任転嫁の根拠

そうなると、目的に叶わないことが定常状態となるという非常に奇妙なこととなり、そこで常に情報が事実ではなくなるというリスクにさらされ、それがズレた時のリスクヘッジが求められることになる。そのために、嘘と責任転嫁を裏書きするような公的な情報というのは非常に有意義であり、自組織の情報がどこかでズレたときには、その嘘と責任転嫁で裏書きされた情報にふることでズレの部分をまさに責任転嫁できるようになる。つまり、目的合理性の安全弁として、嘘と責任転嫁を認めた公的情報というものが非常に重宝されることになるのだと言える。

情報リテラシー

一方で、その情報を読み解くリテラシーとしても、論理の隙を探してそこから鞘取りをする、つまりおかしいと思ったところから利益を引き出す、ということが重要になってきているように感じる。本来的には、対話によって情報の隙は相互補完作用で完全情報に近づく、というのが理論的なあり方なのだろうが、現実にはその相互補完作用は鞘取りによって代替されるということになり、そんなことから対話が納得によって終わるという形は取られにくくなっているのだと言えそうだ。

動学的論理に基づく対話

また、これは私の周辺だけのことなのかもしれないのだが、話を膨らませるときに、最初に大きな、または架空の、あるいは本音で伝えたいことをいい、聴く側がそれを聞き返して、そこから形式的な話をしてゆくといった会話手法で自分の文脈を有利に運んでゆく、というような手法が取られているように感じる。これも動学的論理の理屈で説明がつくことであり、いかにして最終的な目的を合理的に達成するか、ということの知恵として近似的な目的を立てて最終的に自分の目的がうまく達成できるよう狙う、という手法ではないかと考えられる。

動学的論理世界の不合理性

このように、動学的論理を考慮に入れた社会というのは、合理的な会話を成り立たせようとすればするほど嘘と責任転嫁が必要になるという、非常に不合理極まりない社会を作り出すという大きな矛盾を抱えている。だから、世を論理で動かそうとするのは非常に危険なことであり、論理万能社会になればなるほど嘘が蔓延してゆくという、科学と人文学的な性質の違いが具現化してゆくことになる。論理の限界というのは、このように論理性が貫徹されればされるほどに明らかになってくると言えるのだろう。非論理と相互補完による拡張性の高い認識空間というものが構想されるべきではないだろうか。

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