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【Lonely Wikipedia】ベルリン会議

ベルリン会議(ベルリンかいぎ、独: Kongokonferenz、英: Berlin Conference)は、1884年11月15日から1885年2月26日までドイツ帝国の首都ベルリンで開催された国際会議。列強のコンゴ植民地化をめぐる対立の収拾が図られるとともに、列強による「アフリカ分割」の原則が確認された。

コンゴの植民地化をめぐる議論から開催に至ったというベルリン会議。では、そのコンゴの植民地化とはいったい何だったのだろうか。

ベルギー国王のレオポルド2世が王領として開発したのがコンゴだという。レオポルド2世は、このコンゴ自由国の開発をめぐって非常に悪名が高いが、それは本当なのだろうか。

まず、このレオポルド2世の母親ルイーズ=マリー・ドルレアンは、前回見たブルガリア王フェルディナントの母親クレマンティーヌと実の姉妹にあたる。つまり、ハプスブルグの血をひき、王家としての感覚は非常に優れたものを持っていたと考えられる。そして、レオポルド2世自身も、王となる前に自ら上院議員となって政治の実態を把握した上で、世界各地も見て回り、見聞を広めていたと考えられる。ベルギーという国自体が、オランダの圧政に反発して独立した国であり、そんな被支配の痛みがまだ残っているような国、そしてその王家として迎えられた家の出身者が、それほどまでにひどい植民地支配をするようにはとても思えない。

そこで、コンゴという地域がレオポルド2世領となった経緯を見てみたい。まず、イギリス人ジャーナリストで冒険家のヘンリー・スタンリーという人物が、1874−76年にかけてナイル川の源流を探りに出かけ、そのまま西に抜けてコンゴ川を下ってポルトガル領コンゴに至ったことによって道が開けたとされる。その後、イギリスではスポンサーが見つからなかったので、1879年からレオポルド2世の後援を受けてさらに探検をし、一方でベルギーの国として、植民地化を行うという許可は出なかったので、レオポルド2世が自らの資金を使って開発に乗り出し、それがコンゴ自由国になったのだという。
ここには色々と不思議なことがある。まず、スタンリーという人物、前半世の不透明さもさることながら、実績のまだない最初のナイル川源流探しの冒険にニューヨーク・ヘラルドとデイリー・テレグラフというスポンサーがついて冒険に出かけ、その上コンゴ川下りまでして予定外の成果をあげたのにもかかわらず、開発に至るという、一番メリットが大きくなる部分でそのスポンサーがつかない、などということはとても考えられない。そうなると、それ以前からレオポルド2世がスポンサーとなっており、そこに他が食い込めなかったとみる方が自然だろう。しかしながら、スタンリーの最初の冒険にはスポンサーの名が明示されており、そこからレオポルド2世が入り込むのもやはり難しそう。

そうなると、気になるのが、スタンリーがアフリカの奥地で出会ったデヴィッド・リヴィングストンとなる。スコットランド出身のリヴィングストンは、宣教師としてアフリカに渡ったが、一箇所にとどまって教えを広げるというよりも、主として奴隷貿易の実態を確かめるために、アフリカ内陸部の交易路を訪ねて回った。それによってイギリスのロンドン宣教師協会を追放され、その後の活動には何らかの資金源が必要になるはずだが、それが明らかにはなっていない。おそらく、このリヴィングストンを支援したのがレオポルド2世だったのではないだろうか。リヴィングストンは奴隷貿易を激しく非難したために、ポルトガルから反発を受け、そのポルトガルと関係の良かったイギリスとも微妙な関係になったようだ。もっとも、イギリスといっても一枚岩ではなく、リヴィングストンが宣教師協会から追放された頃はパーマストン政権の末期で、外務大臣ラッセルが新帝国主義的な外交政策をとっている時期であり、奴隷反対の声は届きにくい状態であった。
このリヴィングストンの奴隷貿易批判は、おそらくイギリス内部において、奴隷貿易の責任者探しのようなことになっていったのではないか。というのも、自由党の首相の有力候補としてグラッドストンがおり、彼の父親は、かつて植民地の自らの所領で奴隷を保有していたとして非難されたことがあるからだ。アメリカでの南北戦争の影響もあり、そこで奴隷貿易の起源がどこなのか、ということが探られ、そこでカトリックであったリチャード2世の勅許状というものが注目されるようになったのではないかと考えられる。実際にはイギリスの奴隷貿易への関与は非常に限定的であると考えられ、そして、その取引が活発化するのは、どうもプロテスタントが政権を握った時の方が目立つようなのだ。つまり、奴隷貿易の問題は、カトリック対プロテスタントという、トーリーとホイッグという政党対立に直結する、イギリスにおいても非常に微妙な問題について直接触れることなので、なかなか支援しにくい状態にあったのだ。
一方で、アメリカで南北戦争が起こり、南軍が負けた以上、新大陸への奴隷輸出というのは頭打ちになったと考えられる。そこで、大きな奴隷の需要先となるのが、南アフリカでボーア人主体の自治国家を作っていたオランダということになる。南アフリカはイギリス領を経て独立した後もアパルトヘイトという酷い黒人差別が長く続いており、白人と黒人の身分差は明らかであった。そんなオランダ、オレンジ自由国やトランスヴァアール共和国が奴隷を求めていた可能性は大きく、そこに触れたことがまた問題を難しくしたかもしれない。というのは、イギリスはトランスヴァアール共和国をめぐってオランダとボーア戦争を繰り広げており、その対応が問題になっていたからだ。
イギリスは、パーマストンらの自由党の結成により、ホイッグとトーリーという対立構図が弱まっていた。それはもとより大陸からやってきたプロテスタントの影響もあって、ローマ・カトリックから距離を置いていたイギリスのキリスト教が国教会として独立するということに端を発した対立だった。プロテスタントの国教会とそれを支持するホイッグ、ローマからの完全な独立というところまでは支持できずにそれによってカトリックであると規定された人々が集まったトーリーという対立構図の中で、元々国教会独立志向で過激だったホイッグ側が寛容を言い、そしてトーリーの方がジャコバイトの反乱もあって過激化傾向を強めていた。そんな捩れの中でトーリーの穏健派とホイッグの多くが参加して結成されたのが自由党であった。一方で、トーリーには過激派が残り、そこからディズレーリが主導して保守党が結成された。自由党はパーマストンの没後、ラッセルというホイッグ色の強い政治家が主導するようになり、ライバルであるグラッドストンを貶めようとしていた。
そういう長年にわたる複雑な宗教に関わる対立状態で、宣教師協会自体の立場も揺らいでおり、そしてさらにそこから追放されたリヴィングストンは、イギリスにおいては後援者を見つけるのがなかなか難しい状態であったことが想像される。そんな中で、カトリックとしてプロテスタント国家のオランダから独立してまだ二世代目のレオポルド2世は、国内で巻き起こった反カトリック運動の争乱から距離を置き、相対的に中立的な立場からリヴィングストンの活動を支援したのではないか。そしておそらくコンゴ川下りのルートを発見したのもリヴィングストンだったのではないだろうか。リヴィングストンの奴隷貿易批判はポルトガルに向けて行われたものだったようだが、確かにその仕向け先はポルトガルと関わりの深いブラジルだったかもしれないが、それを実際に行っていたのはプロテスタント商人、つまり南部アフリカからのオランダ商人を介した取引が主だったのではないか。レオポルド2世が直接指示したとは思えないが、リヴィングストンは、レオポルド2世の立場も慮って、直接的なオランダ批判を控えたのではないだろうか。そしてそのことが却ってポルトガルの国教であるカトリック批判へと転用される、というようなこともあったのかもしれない。それがディズレーリから新植民地主義者のセシル首相下のイギリスの政治状況に反映され、レオポルド批判につながっていったのかもしれない。
とにかく、そんな状況で、レオポルド2世はひとまずコンゴ盆地を中心とした地域を自らの負担で開発を行うこととし、王領コンゴとした。それと同時に、アフリカの奴隷貿易や植民地開発について問題提起を行なったのではないか。そうして、そのアクセス改善のために鉄道建設なども行い、天然ゴム採集などで事業化の目処がつき始めたころに、それを逆手に取って開催されたのがベルリン会議ではないかと考えられる。それを主導したのは、ドイツ帝国のビスマルクであった。ドイツは結局そのベルリン会議の結果としてケープの北に広がる南西アフリカ(今のナミビア)を植民地とすることに成功し、それによってケープのオランダ系ボーア人を支援しようとしたのではないだろうか。

さて、ではベルリン会議なるものの実態をもう少ししっかり見てみたい。この会議、世界史を方向づけた重要な会議のようにみなされるが、実は開催国のドイツ以外で首脳級が参加していたのはポルトガルの外務大臣とオスマン帝国の首相(級)だけで、あとはベルリンにいた大使が参加していたのにすぎない。つまり、レオポルド2世がコンゴ川流域を開発し出したことに対して、ポルトガルがかつてのコンゴの土着勢力との条約を持ち出して、その開発権はポルトガルにある、ということを主張したのをドイツが拾って会議を開くことにしたようなのだ。ただ、ポルトガルがいきなりそんな昔話を持ち出した訳を探るには、それ以前に遡って考える必要がある。

アフリカ南部には、喜望峰という南端の航海の要衝にオランダが開いたケープ植民地があった。ナポレオン戦争の結果、オランダ本国がフランスに占領されたこともあり、その海外領土は再編成する必要が出てきた。どこまでが実効的に支配されていたのか、ということを確認し、近世に入ってからやたらと海外での話を大きく吹聴して張り子の虎になっていたオランダの海外領をきちんと規定し直すことで、ヨーロッパ以外の世界を等身大の大きさに戻すことが求められたのだ。その結果として定められたのが1814年のロンドン条約であり、それによって一旦イギリスが接収したオランダの海外領や資産をオランダに再交付することが定められた。その中で、例外として、アフリカの喜望峰と南米ガイアナの3つの居住区についてはイギリスが支配することを定めた。これは奴隷貿易に関わっていた疑いが濃厚だったからではないかと考えられる。実際、同条約の中で、イギリスの港を経由した奴隷貿易は禁止されており、奴隷取引の禁止というのがこの条約の大きな目的であったことが見て取れる。これを見ても、当時奴隷取引の中心とみなされていたのがオランダであるのは明らかであろう。ただ、喜望峰とはいっても、その範囲は明示されてはおらず、とはいってもアフリカ南部で奴隷の積み下ろしができる港は当時は喜望峰しかなかったと考えられ、それによって実効的に奴隷貿易は止めることができたのだろう。1834年になって、ケープにおいて奴隷が全面的に禁止されると、オランダ系のボーア人は北に向けてグレートトレックと呼ばれる旅を始めた。これによって、イギリスの勢力が及ばない、東は強力なズールー族の支配地域よりも北側、西はナミブ砂漠よりも北側で奴隷貿易のできる港を確保しようとしたのだと考えられる。そんなボーア人の北への展開によっておそらく、今のアンゴラやモザンビークを経由した奴隷の輸出ルートが出来上がったのではないかと考えられる。そして、リヴィングストンはその様子を目の当たりにして、そのルートを抑えようとアフリカ探検に乗り出したのだと考えられる。これが、リヴィングストンがポルトガルによる奴隷貿易を非難した背景なのだろう。

一方で、ベルリン会議には、植民地状態から独立して成立したはずのアメリカが何故か二名も代表を送り込んでいる。これはいったいどういうことなのか。そのアメリカ代表のうち一人は、リンカーンによってベルギー担当相に任命され、その職を8年にわたって務めていたヘンリー・サンフォードだった。南北戦争中のアメリカが特にベルギーに担当大臣を置くという異様な光景をどう考えるべきだろうか。ちょうど南北戦争に並行する形で、メキシコにナポレオン3世がオーストリア大公マクシミリアンを担いでメキシコ帝国を打ち立てていた。このマクシミリアンの妻シャルロッテがベルギーのレオポルド1世の長女、つまりレオポルド2世の姉に当たるのだ。レオポルド1世の妻はフランス復古王政のルイ・フィリップと両シチリア王の娘でハプスブルグ家の血を引くルイーズ=マリー・ドルレアンで、ブルガリア王フェルディナントの母であるクレマンティーヌの姉に当たることはすでに述べた。そのハプスブルグに非常に近く、王による親政で啓蒙的というか、より良い統治を目指そうとするマクシミリアンとシャルロッテがメキシコで帝政を成功させたら、それは中南米全体に波及する可能性もあり、アメリカの立場は非常に弱くなる。それを牽制するための、最大の後援者であるレオポルド1世への牽制のための特任大臣の設置であると考えられる。
その頃ベルギー議会はプロテスタント色の強い自由党が政権を握っており、オランダの影響が強まっていた。また、ドイツでもプロイセンがルール地方を手にし、それを軸にして北ドイツ連邦が形成されて、カトリックのオーストリアの影響力は後退し始めていた。そんな中で、メキシコ帝国というのはカトリックの中でも神聖ローマ皇帝の側にとっては起死回生の手でもあったと言えそう。しかしながら、イギリスでパーマストンが、そしてベルギーでレオポルド1世が相次いで没した後に、普墺戦争でオーストリアが敗れ、ハノーファー王国がプロイセンに併合されて、オーストリアの力がおちると、メキシコ帝国もナポレオン3世に切り捨てられる形で、呆気なく崩壊してしまった。一方ベルギーではレオポルド2世が王位を継ぎ、立て直しを図るが、国内ではカトリックとプロテスタントの宗教対立が激化していた。そんな中で、メキシコ帝国への持参金として準備していたものが行き先がなくなっていたのかもしれず、それがコンゴの開発へとレオポルド2世を駆り立てたのかもしれない。いずれにしても、それはアメリカにとってはあまり愉快な話ではなさそうで、そんなこともあってスタンリーをニューヨーク・ヘラルド経由で支援したのかもしれない。そしてそれを足掛かりにベルリン会議に一枚噛んだのではないだろうか。

さて、そのスタンリーについてもう少し見てみると、彼が何故スタンリーを名乗ったのかは実はあまりよくわかっていないようだ。アメリカの富豪スタンリーという人物に見込まれて養子になったともされるが、その死亡時期の話が合わないようだ。そこで考えたいのが、ベルリン会議当時イギリスの植民地大臣を務めていたダービー卿についてだ。ダービー卿は代々スタンリー家が世襲している爵位である。当時イギリスは自由党グラッドストン内閣であったが、ダービー卿は新植民地主義を推し進めたディズレーリが作り、それを実現に向けて動かしたソールズベリー(11月8日セシルより修正)が所属する保守党に所属していたが、その後自由党に移っての入閣であった。つまり閣内ではありながら、内閣とは別の考えを持っていた可能性がある。そんな立場から、スタンリーという架空の人物を作り上げ、アメリカと組んで植民地拡大路線を取ろうと仕組んだ可能性もある。なお、スタンリーのスポンサーであったデイリー・テレグラフは保守党に近い立場で知られている。つまり、スタンリーとは、植民地大臣ダービー卿の肝煎りでその名がつけられた、イギリス新植民地主義派の切り札的存在だったのではないか。
そして、レオポルド2世はコンゴの開発を国際アフリカ協会という組織を通じて行おうとしていたが、スタンリーはそれとは別に作られたとされる国際コンゴ協会からコンゴ開発の依頼を受けたとされ、そこで組織が二重になる意味がよくわからないので、後者の方はレオポルド2世とは無関係に作られ、そしてベルリン会議でそれが本体となるように定められたのではないか。つまり、レオポルド2世のコンゴ開発の仕組みにダミーを作り、そこにスタンリーを関与させて、いざとなればレオポルド2世の国際アフリカ協会を乗っ取ることができるように、ということを考えていたのではないだろうか。
さて、そのアメリカ代表としてベルリン会議に出席したサンフォードは、アメリカにいる黒人をコンゴに帰すという計画を持っていたようだ。黒人だからアフリカならどこでも良いわけがなく、特にコンゴなどは、たった今探検が終了して開発が始まったばかりのところで、そんなところがアメリカにいる黒人の故郷のわけがないのに、それで偽善心を満足させようという感覚が、とてもではないが普通の人にはついていけなさそうだ。そんなことがあって、のちに、まだ故郷に近いであろう西アフリカの一角にリベリアという国が作られることになったのではないか、と考えられるが、それはまた別の話となる。とにかく、そんな錦の御旗になるのかどうかもよくわからない話を携えてベルリン会議で主導権を握ろうとしたのだろうと考えられる。

1884年11月から85年2月にかけて行われたベルリン会議では、結局次のようなことが決まった。
*奴隷制度の廃止
*国際コンゴ協会に属する財産がレオポルド2世の私有物であること
*署名国はコンゴ盆地全体とマラウィ湖の東側での自由貿易を認めること
*ニジェール川とコンゴ川の自由航行
*植民地の実効支配の原則
*最初にアフリカ沿岸部の支配または保護領化を行うことは他の国に知らせること
*それぞれのヨーロッパ諸国はアフリカの土地の法的所有を追求する排他的権利を持つこと
のちに沿岸部の支配がその内陸部の支配も認められるということになった。
レオポルド2世はこの会議で国際コンゴ協会に属する財産がレオポルド2世の私有物であることが定められたのにもかかわらず、会議の直後にそこをコンゴ自由国として独立させている。自ら君主となったが、独立した政府を立てて、財政の管理もその政府に行わせた。これはどういうことかと言えば、レオポルド2世はコンゴが自分の所有物となることを望んでいなかったということが言えそう。元々レオポルド2世はアフリカ全体についてその在り方を考えよう、ということで国際アフリカ協会をつくったのであって、支配することが目的ではなかった。それが、ベルリン会議において勝手に国際コンゴ協会の財産が自分のものであると定められた上に、実効支配の原則やコンゴ川の自由航行とコンゴ盆地全体での自由貿易が認められたら、アメリカで起きたことの繰り返しが行われるのではないか、と考え、コンゴ盆地全域にあたる地域にコンゴ自由国を設置して実行的な自治政府による支配を行うことを決めたのではないだろうか。逆に、ビスマルクやそれに乗った列強はレオポルド2世を名目的な国際コンゴ協会に閉じ込めて、私有財産による植民地支配を行う皇帝との印象をつけた上で、その影でアフリカを好きなように分割しようと考えたのだろうが、レオポルド2世の方が一枚上手だったと言えるのだろう。それが悔しかったので、列強はのちにジョセフ・コンラッドによる『闇の奥』、エドモンド・モレルの『赤いゴム』、マーク・トウェインの『レオポルド王の独白』などでコンゴ自由国を悪く書くよう仕向けたのではないだろうか。その嚆矢となったコンラッドであるが、ポーランド系イギリス人となっているが、確かにイギリスで船長の資格を取り、そして英国籍を取ったようだが、英国の居住記録はほとんどない。むしろ最初に船員となったフランスの方が関わりが深いように見えるし、船員としてあちこち行ったとして、コンゴに、いつ、どれほどの間いたのか、ということは明らかではない。つまり、本当に現地の様子を見てそれを書いたのかは明らかではないのだ。エドモンド・モレルもイギリス人となっているがパリ生まれであり、どうも、コンゴ川河口にコンゴ・ブラザヴィル植民地をつくったフランスが内陸部の利権欲しさにコンゴ自由国をことさら貶めたような気配がある。

とにかく、このような列強の圧力にもかかわらず、コンゴ川流域を広くまとめることに成功したレオポルド2世の努力があったおかげで、アフリカがアメリカのように原住民を犠牲にした植民地の草刈り場にならず、またアフリカ中央部に南アフリカやローデシアで行われたようなひどい人種差別の政治も行われなかったという大きな功績にはもっと光が当てられて然るべきだろう。

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