権力が任意に強制性認識を行う世界

明確な証拠なく、片方の主観を採用して権力が任意に強制性の認識を行い、その非難の方向を恣意的に定める、という社会では一体何が起きるだろうか。

三権分立の考え方

まず、基本的に、三権分立の意味するところは、司法、立法、行政の機能を分割することによって権力の集中を防ぐ、ということがある。その上で、社会正義についての判断は、司法が法に定められた手続きに従って、関係者の主張をそれぞれ吟味し、証拠を精査し、判例を踏まえ、判決への賛否について実名で責任を負う複数の裁判官による合議の結果裁判長の最終責任において判決が下される。それは、政治的要素が入り込むことを防ぎ、そして行政の指揮系統とは離れてなるべく客観的に判断が下されるよう、永年の試行錯誤から相対的によく機能するであろうとの経験的判断に従い、近代法治国家の中では、比較的多く採用されている制度なのだと言えるだろう。それは、権力の集中が社会に苦難をもたらしてきたという度々起こる現象をなんとかして避けようとして考えられた人類の叡智の一つなのだと言えるのかもしれない。

事実解釈について

そこで、事実解釈というのは人によってさまざまであり、それはそれぞれの主観に基づく。過去の話になればなるほど、主観はさらなる主観によってどんどん上書きされ、事実からかけ離れてゆく。だからこそ、過去の話になればなるほど証拠というのが重要になる。にも関わらず、権力者が主観に基づいて一つの歪んでいる可能性が十分にある主張について証拠もなく採用し、裁判のような公的手続きを経ることもなく、誰が参加していたのかも明確ではない密室で責任者不在の意思決定を行い、それをあたかも公的見解であるかのように扱う。一体、昔の話に誰がどのような権利を持って証拠もないのに非難をぶつけることができるのだろうか。
そういうことがなされないように、権力をわざわざ三つに分けて、価値判断、意志決定、業務遂行を分けて、どこかで間違いがあっても修正できるような仕組みにしているのが三権分立の基本的な考え方だと言える。

強制性について

さて、そこで、強制性とはいったい何を意味するのであろうか。人と人との関係において、意志の交換を行うとき、自分の意志を相手に伝えるという行為のいったいどこからが強制になるのであろうか。話をすることはすでに強制性の発動になるのであろうか。それとも、嘘を交えて自らの意志に相手を従わせることが強制なのであろうか。そのとき、嘘とはいったい何を意味するのであろうか。未実現の未来について語ることは嘘なのだろうか。あるいは主観に基づいた過去の認識について語ることは嘘なのだろうか。嘘を言うことがすでに強制性の発動なのだろうか。それとも嘘を何らかの力を持って押し付けることが強制性の発動なのだろうか。

強制性認識

強制性の認識とは、本来的にはこのように緻密に状況を分析して行う必要があるのだろう。もし仮に話をすることが強制性の発動であると言うことになったら、社会において対話を行うことはほぼ不可能になるだろう。意志を伴わない形式的な話だけが行われる社会となり、言葉から意味が失われることになる。そして意味はその形式の表現から推察するしかなくなり、心の読み合いが常に行われる社会となる。
嘘を交えて自らの意志に相手を従わせる、と言うことであれば、本当のことだけを語る会話は許され、そして論理的にはその本当のことだけが会話を通じて広がる、と言うことになる。しかしながら、本当か嘘か、と言うのは発信者はもちろん、受信者の解釈にも依存する、非常に難しいものであり、そこでどちらか一方の言い分を取り上げて真実認定を行うと言うのは、個別に行われれば、情報についての市場原理を機能させる要件となりそうだが、権力が行えば、意志決定の真偽の価値判断を行うと言う、三権分立の二つを結合させ、集権的になることを意味する。

嘘 将来・過去

さて、それでは嘘とはいったい何を意味するのだろうか。将来の夢、未実現の未来について語るのは、未実現である以上、現実を基準とすれば嘘となる。それを嘘とすれば、手元の具体的な商品を売る以外の、サービス業や手元にはない商品を販売すること、もっと言えば、具体的商品を作る依頼すらも未実現である以上嘘ということになり、経済活動はほとんど成り立たなくなるだろう。また、話をして、実現時期の特定にまで至らなかった時に、それは嘘になるのだろうか。そして嘘をいったからその話を接収するということは許されるのだろうか。そんなことになれば、人は未来に関して語ることはほとんどできなくなる。未来について語ることのできない真っ暗な世界。そんな世界にならないためにも、未来についての話は、そもそも真偽の対象にすることすらおかしなことなのだろう。それは真偽ではなく、個別に話の内容についての解釈を行うということが、同じように市場を機能させることになるのであって、それもまた、権力が何らかの解釈を行えば、意志決定と業務遂行を統合させることになるのだろう。
一方で、過去の認識について主観に基づいて語ることは嘘になるのであろうか。主観である以上、それが嘘か本当かというのは発信者本人の主観であるし、またその真偽を判断するのも受信者の主観であるということになるだろう。そして、過去、もちろん現在についてもだが、認識を語ることは常に主観であり、それが嘘かどうかということは一義的に決まるものではない。そういう解釈もできるかもしれない、という程度であり、これもまた解釈が個別に行われれば市場原理が作用して、活発な議論が行われることになる。しかし、権力がそれを行えば、過去についての認識はそれぞれの行動の前提となるために、価値判断と業務遂行を統合させることになるだろう。

認識と権力

こうしてみると、認識についての真偽を問うというのは常に主観であり、主観的解釈を行うことであるということがわかる。それゆえに、権力はその主観的判断・解釈・実行を行うのにきちんと手続きを踏む必要があり、それが強制力に歯止めをかけることになるのだと言える。
そう考えた時に、内閣という立法と行政の結節点である権力が一つの主観的主張を殊更に取り上げ、明確な証拠もないのに、国際的な判例に影響を与えかねない、責任者不在の社会正義判断、いわば断罪を、何の正当な裏書き手続も、継続宣言もなく自動的に永続するものとして宣言するという世界はいったいどのようなものなのだろうか。
それは、意志決定という機能において価値判断と業務遂行を統合し、三権を一体化した上で、手続き無視の永続的無責任社会正義判断が、主権の及ぶ国内のみならず国際的にも敷衍するという、これ以上にない権力の横暴だということになる。そのようにしてなされた一方的断罪を引き継ぐ主権者はいったい如何なる対応ができるのだろうか。
このような歴史的な異常事態が長年にわたって放置されていることについて、それぞれの立場からどう考えるのかが問われているのかもしれない。

こんな状況に何もしないのも嫌なので、署名活動も細々やっています。

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Emiko Romanov
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