見出し画像

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(21)

株式会社改革への道1 銀行制度の確立

帝人事件がらみで株式会社の歴史について調べたくなり、会社法の整備の流れがわかる本を探していて、『日本会社法立法の歴史的展開』という本で大まかな流れが掴めたので、何回かにわたってその要約をしながら、最終的には株式会社制度をどうしたら良いか、ということについての私案をまとめてみたい。引用ではなく感想込みの要約なので、解釈が間違っているところがあるかもしれないことは事前にお詫びいたします。

幕末の動き

まずは、幕末における西洋との接触から、会社というものに衝撃を受け、それを作る動きが起こったとのこと。民間側では商社、幕府側では銀行に関心を持ったという。ただ、民間商社と言っても、取引は基本的には開港場を通さないといけないはずで、幕末には列藩が海外から武器を買ったというような話もあるが、条約を結んだ国とそのような条約違反の商取引をするとは思えないので、それは事実には反するのではないか、という気がする。そして、会社を作ったところで法的に何の保護もなければ、外国サイドもそのようなものを通して取引する理由もなく、少なくとも維新後一定期間は民間から商社を出そうという動きは、あまり大きくはならなかったのではないだろうか。

銀行設立の意図

一方で、幕府側の銀行については、そもそも会社を作る意味というのは、丁寧に言えば、事業失敗時のリスクを適切にマネージすること、端的に言えば借金をいかに合法的に踏み倒すか、ということであるとも言え、その意味で、銀行や関税を担保にして金札を発行させる会社というのは、紙切れで政府を動かそうとするには非常に魅力的な仕組みとして映ったとしても無理はなさそう。ただ、関税を担保とするのならば、主要な収入を輸入で賄うと考えていたということになり、そうなる時に誰にその金札を使わせるのか、というルートが見えない中、それもやはり絵に描いた餅だと考えざるを得ないのではないだろうか。

無理な金策、太政官札と金札

さて、明治維新後になると、慶応四年閏四月十九日に、太政官札についての太政官布告が出たとされる。曰く、列藩に対して石高万石につき一万両づつ、殖産資金として貸し付けられ、藩は毎年一割ずつ十三年間上納してそれを返済するのだという。これまで各藩は幕府に対しても直接的な租税負担はなかったのにも関わらず、維新直後に紙切れを押し付けられ、実質的にその対価として十三年間千両程度の金を返し続けないといけないというのはあまりに無理のある布告だと言わざるを得ない。農商を営む者たちにも勧業のため、担保をとって貸付が行われたという。また、関税を担保に富裕な商人に金札の発行を認め、結局租税等の上納のために金札を使うことを認めたということで、税の納付券を押し売りする、という形で金札の普及が図られたということになる。一体誰が借金の返済のためにしか使えないような金札を好き好んで流通過程で受け取ろうと考えるのか、という、根本的な常識的感覚が欠如しているとしか言えない。これは、アメリカの南北戦争時の国法銀行券を参考にしたのだと思われるが、すでに見たようにアメリカの国法銀行券の担保は財務省債券であり、正貨との兌換はなかった。それに対して、裏付けを定めておらず、関税で取らぬ狸を考えながら、上納自体金札で、などということにしたために、結局政府の元には自分で発行した金札が戻ってくるだけでしかなくなっているということになったのでは。外国からは太政官札の正貨との交換や、財源たる関税の納付を金札で、ということを求められ、結局発行高の上限を定め、正貨との兌換を行うという、当然のことを約束するに至ったという。なお、金札自体は、明治五年までに発行される新貨幣に利子をつけて交換できるとしたために、一応は流通したようだ。

通商司と通商・為替会社

明治二年二月二十二日には、外国官に通商司が置かれ、最終的に大蔵省の管轄で定まったという。通商司は広範な権限を得たが、その中には為替会社と通商会社の設立・指導というものがあったようだ。通商会社は諸物価平均流通と商業の振興を図り、為替会社は直接商業には携わらずに、貸付、両替、預金業務等によって貨幣の流通を図るのだという。結局どちらも事業の拡大のためには資金が必要となり、そのために預金を集めて貸し付けるという金融的側面が表に出やすい機構となったのだといえそう。この通商会社に対しては政府が法規の施行、契約の強制執行、債務の補償にも当たる姿勢を示したという。これは大坂通商会社規則の前文に書かれている内容のようで、この債務の補償ということが、あるいは後の昭和金融恐慌の時の震災手形処理のような話につながってゆくのではないか。

貨幣の使用による通商拡大

いずれにしても、ここには日本の近代化過程というものが如何なる経路を辿ったのか、ということについて、一つの明確な足跡を残している。これが日本全体に当てはまったことだとは思えないが、とにかく兌換紙幣の流通促進と合わせて、政府が通商会社の権利を保護する形で紙幣による通商を広げようと試みた、ということが言えるのだろう。私は、そのあり方は大坂周辺のみで先行して起こった事象ではないかと考えており、それによって天下の台所大坂というのが、江戸時代ではなく、明治になってから成立していったのではないかと想像している。

国立銀行

さて、明治五年十一月十五日、国立銀行条例が公布され、アメリカのナショナルバンクを参考に国立銀行の設置が定まったとされ、伊藤博文がアメリカ式を、大蔵官僚の吉田清成が英国式を主張したとされるが、結局

太政官布告第 349 号により、国立銀行条例が公布された。同条例の下で国立銀行は、公債を抵当に正貨兌換の銀行紙幣を発行する株式会社とされ、同年 8 月に認可を受けていた三井小野組合銀行を改組して設立された第一国立銀行をはじめ 4 行が開業した。この間、伊藤は岩倉使節団の副使として米欧を歴訪し、吉田は廃藩置県に続く秩禄処分のための外債(七分利付外国公債)の募集のため英米に派遣されており、条例の起草には関与していない。大蔵省に残り、国立銀行条例を法令化したのは、渋沢等であった。
明治 9(1876)年に国立銀行条例が改正され、兌換条項が廃止された。この結果、伊藤が当初描いていた制度がほぼ実現したことになる。改正国立銀行条例の下で、全部で 153行が設立され、その後の日本の銀行制度の骨格を形成するに至った。
明治 15(1882)年に日本銀行が設立されたことに伴い、今度は吉田が描いた制度が実現する。国立銀行は、営業年限終了とともに紙幣発行権限を持たない普通銀行に転換するか、廃業することとされた。

紙幣統合への道程:明治初年の「銀行論争」再考
(この辺りの経緯、どうもすっきりとしないので、よくまとまっているものから引用させていただいた。)

これを見て感じるのは、責任者不在とも言える状況で公布された国立銀行条例に基づき、非常に早いペースで153もの銀行が設立され、そしてわずか六年でルールを根底からひっくり返す普通銀行転換などという無理なことが通った背景には何があったのか、という疑問だ。私は、これは、もしかしたら、全てとは言わないが、会社という無人格の存在を利用した、ペーパーカンパニーの届けが153出てきた、ということなのではないか、と感じている。そして、それがその後の日本経済・社会を大きく規定する要因となったのだと疑っている。近代資本主義の父とも言われる渋沢栄一とは、要するに国立銀行条例の制定を主導したことで、このペーパーカンパニーを認めるか否かということに関して非常に強い権利を持った人物だったのではないか。

国立銀行 広島の場合

なお、広島に関して言えば、

第百四十六国立銀行は1879年(明治12年)4月21日、不換紙幣(国立銀行発行券)を発行する銀行として資本金80,000円をもって設立され、(中略)広島県下では2番目の国立銀行であったものの国立銀行全体としてみれば最末期の設立であり、開業も設立申請された153の国立銀行の中では最も遅いものであった。初代頭取となったのは高田郡桑田村(現・安芸高田市)の製鉄業者・高杉判右衛門で、広島区および郡部の有力商人や士族が設立に出資したが、10名の設立発起人のなかに広島城下(現在の広島市中心部)の商工業者の参加はなかった。(中略)
発足当初の当行は、尾道・福山の大商人や大地主の出資により当行の倍以上の180,000円の資本金で設立された第六十六国立銀行と異なって経営は不安定であり、払込未済分は30,000円に達していた。

Wikipedia | 廣島銀行 (1897年-1920年)

ということで、尾道の第六十六銀行の方が大きかった様子。銀行を持たなかった浅野財閥との関わりなども気になるところで、こんなところからも広島から見える世界はどんどん広がりそう。
そこで、第六十六銀行からもう少しだけ見ておきたい。

第一次世界大戦中の好況に際しては、県下で比較的規模の大きかった当行は積極的な業務拡張政策をとったが、大戦後の不況に見舞われると県下の他行との合併が模索されるようになった。1919年(大正8年)夏以降に広島市を本拠地とする(旧)廣島銀行・広島商業銀行の合併工作が表面化すると、当行もこれへの参加を決定し、翌1920年春には3行合併の契約が結ばれた。その後、これとは別個に合併論議が持ち上がっていた三次貯蓄銀行・比婆銀行・角倉銀行・双三貯蓄銀行の備北4行が新たに合併契約に参加することとなり、同年6月30日、当行を含む7行の新立合併によって広島に本店をおく「(旧)藝備銀行」が発足した。これにより当行は10月1日に解散し、当行の本店は藝備銀行の尾道支店として継承された。

Wikipedia | 第六十六銀行

ということで、第一次世界大戦後に広島市の銀行と合併し、そちらに本店が移ったという。これは、時期的には帝人の広島工場設立に少し先立つことで、その建設費用についての鞘当てが六十六銀行や鈴木商店を巻き込んで蠢いていたのかもしれない。

このように、国立銀行の運営の実態を見ることから、明治初期から戦前にかけての各地域の経済の実態のようなものはかなり見えてきそう。今残されている記録とは別に、常識的な感覚を働かせてそれらを見直してみる必要があるのかもしれない。

国立銀行条例公布の背景

さて、会社法との絡みで言うと、株式会社方式による銀行の仕組みを定めたこの国立銀行条例が、事実上日本における最初の会社法であると言えるのかもしれない。なぜこの条例をその時期に定める必要があったかというと、先に出てきた金札に一ヶ月五朱の利息(年利6%)を付して明治五年までに新貨幣への引き換えを行う、という約束がなされていたために、早く新貨幣を出してその交換を行わなければならなかったためだという。そして、伊藤博文がアメリカ式のナショナルバンクを志向したのも、年6%という利息の約束を果たすために、その利息のついた公債兌換の通貨ならば説明がつく、ということだったようだ。結局国立銀行は金兌換と高率の準備規制となったため、伊藤の目論見は外れたが、そのためか新貨幣は一時的にしろ国民の信頼を得て、金札の大部分は、不換紙幣の新貨幣と交換されたという。

国立銀行条例改正

結局政府はこの信用を乱用してその不換紙幣を乱発したためにその価値が下がり、そうなると国立銀行発行の金兌換の紙幣が手に入るとすぐに兌換を求められ、正貨の流出が始まった。それに対応するために、明治九年八月一日に国立銀行条例の改正が行われ、正貨兌換から政府紙幣兌換へと変わるなど多くの規制緩和がなされ、国立銀行が当初目指していた政府紙幣整理の目的は完全に放棄され、そのかわりに銀行業への参入希望が相次いで、明治十二年には国立銀行の設立許可は打ち止めとなった。

日本銀行条例

そして、放棄された政府紙幣整理のために中央銀行の設立が求められるようになり、明治十五年六月二十七日に日本銀行条例が定められた。ここからは政府紙幣整理のプロセスが加速し、明治十六年五月の国立銀行条例改正で、国立銀行は二十年の営業期限の後は普通銀行としてのみ存続が許され、銀行紙幣は全て営業満期までに鎖却すべきものだとされた。翌明治十七年五月、兌換銀行券条例が公布され、翌年から正貨兌換の日本銀行券が発行されるようになった。日本銀行条例では兌換銀行券の発行は別段の規則を制定することとなっていたので、この兌換銀行券条例によってようやく日本銀行は兌換銀行券の発行ができるようになったのだ(『日本銀行百年史』第二章3兌換銀行券の発行)。明治十八年六月六日には、翌十九年一月一日からの政府紙幣兌換実施が布告された。これによって西南戦争以降の不換紙幣増発によるインフレ傾向がようやく収束することになる。

国立銀行と資本主義の勃興

国立銀行条例公布のところで挙げた疑問はだいぶ解決したが、いずれにしても国立銀行はまだ二十年の営業期間があり、そして銀行紙幣も期限内鎖却すれば発行可能なわけで、そこに大きな投資余力を抱えたまま、明治初期から中期の官有物払い下げ、および資本主義勃興の時期に突入したことになる。そこで、いわば紙切れを発行するだけで事業がどんどん手に入る、という状況が発生したわけで、普通の感覚ならばそんなことには耐えられないということもありそうで、それを典型的には渋沢栄一という人物に代表させて歴史に残した、ということもありそう。

個別事業の歴史の中には、本来ならばもっと違った発展の仕方があった可能性のものも多く含まれると思われる。それが全て渋沢的人物の功によるものだ、とされるのはあまりに惜しいことで、地域ごとに何らかの文脈の痕跡が残されているのならば、それはできる限り後を辿って元の地域に帰してゆく、ということが、多様な産業発展という意味からも、欠かせないことになってゆくのではないだろうか。

そして、株式会社は有限責任でリスクレバレッジをかけることができるので、特に銀行のように信用創造を行うような業務を行うには、本当にその事業形態が向いているのか、ということは改めて問われる必要があるのかもしれない。

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。