目的合理性と一般意志合意形成

現代社会を特徴づける目的合理性と一般意志の組み合わせによる合意形成には非常に大きな問題があると言える。

社会の目的合理性の結果としての個別目的不合理

目的合理性に基づけば、行動は自分の意志を実現するために最適にセットされることとなる。一方で、全体意志を定めるために一般意志が導入されると、それぞれの目的合理的な意志の集合体によって一般意志が定まるために、自分の優先順位を上げるための主導権争いを強いられて、従属的な地位となると自分の思う通りの仕事ができなくなるという、目的不合理な結果が返されることとなる。

共通前提に基づく目的合理的組織

目的合理性は、個別に設定されれば個別前提に基づいた個別の目的に対する合理性となるべきなのだろうが、多くの場合フィクションとも言える共通前提に基づきその枠内でのゲームによって集合的に目的合理性が追求されることになる。前提が限定的となるので、その共通前提を共有した中では情報交換の速度が上がり、仕事の速度も上がることになる。この仕組みによって、いわゆるゲゼルシャフト的な組織は、集団として合理的な目的追求ができるようになるのだと言える。

誰がどのように目的とその基となる前提を決めるのか

しかしながら、このような集団的合理性追求を機能させるには、誰が、いかにして前提と目的を設定するのか、という大きな問題が発生する。ギルド的な職人集団であれば、継続的に受け継がれてきた技能に基づく仕事を行ってゆくという、明確な前提と目的があるが、新たに入る者はその継続的に行われてきた、という部分を受け入れた上でそこに入ることを求められ、その意味で個の前提は捨象されざるを得なくなるのだと言える。

株式会社の場合

ゴーイングコンサーンとしての株式会社は、この延長線上にあるとも言えそうだが、ギルド的な組織が少なくとも土地に土着し、そこの歴史と伝統を多かれ少なかれ引き継いでいると言える一方で、株式会社は、特に上場、グローバル化するに従って、設立時の歴史と伝統よりも、より普遍的とされる価値観に大きく寄せられることとなり、それは個別の人の個性との引っ掛かりが薄れてゆくことになる。
そうなるとその普遍的に近い前提、そして目的の明確化に際して、誰がどのようにしてそれを決めるのか、という問題が起こり、株式会社では多数いる株主の間でその意見調整が行われることになる。それは最終的には株主総会での議決ということになるが、そこに至るまでの方法は必ずしも明確とは言い難く、さまざまな思惑の調整が、名目上は株主の保有する株式数に応じた議決権をその源泉とした上で、それぞれの利害関係者がいかにうまく自分の意図を織り込み、その方向に誘導するか、という形で行われるのだと言える。

一般意志による決定との類似性

それは一般意志の決定のあり方に近いのではないかと思われ、さまざまな文脈、時空感覚、意図に基づき、それぞれの思惑が複雑に交錯する中で、一つの意志に向かって調整されてゆくという過程であると言え、それは株主総会のような特定の場所、日時で開催されるものならばその時だけのスポット的な話となるが、その前からの文脈がずっと継続していると、常にその一般意志調整過程にあるということになり、個別の意志のありかが分からなくなってしまうリスクが高くなる。

一般意志合意形成過程の不合理さ

それは、意志と意志が密着しながら相互作用によって互いの考え方をすり合わせるというやり方となり、ギルドのような具体的技術の伝承を柱とした技術伝達集団のあり方とは根本的に異なる。つまり、目的合理性と言いながら、その目的が必ずとも一致しているとは言えない状況で、抽象的な集団目的を具体化し、その方法論を決めるのを、集団で行うということになり、その部分が既に全く目的合理的ではない集団であると言え、それは目的合理的な組織とは言い難いことになる。目的合理的ならば、合意された目的について具体的にその目的に対する問題意識、そしてそれを解決する方法論を各自が提示して、それによって組織で動く効果が発揮されることになると言えるが、目的のすり合わせをするところにコストと力を注ぐことは全く無駄であると言わざるを得ない。それを行っているのが、現代的な民主主義の基盤となっているとも言える一般意志合意形成過程なのだと言えそうだ。

目的合理性達成のためのハードル

そのような一般意志の合意形成過程で自らの目的合理性を貫くためには、まさに意志の力によって自分のやり方を貫くか、あるいは自分のやり方を他者に押し付けることで支配する、ということが求められることになり、さもなければ一般意志に流されてそのやり方を受け入れる、あるいは調整過程自体に没頭して我を忘れてしまう、といういずれにしても個の目的合理性達成のためには大きなハードルが立ち上がることになる。

現代的民主制度の無駄

つまり、有権者を主権者とした制度であるはずの現代的民主的制度というのは、実際にはその主権者間で多様であるべき目的をわざわざ一つに統合して一斉にやる、という無駄を生じさせるために、コストと能力を使って合意形成過程を作り出しているという、いかにも非合理的な制度であると言わざるを得ない。そのような制度は、規模の小さな、常に顔を突き合わせて意見交換できる程度の範囲で採用されるべき手法であり、代表者を出して語り合わなければならない、というのは、もはや外交のレベルであって、身近な問題について議論するための在り方ではないと言えよう。そして、外交であるとするのならば、そのような責任の所在が不明確な空気で動くような意思決定に依存するということ自体が大変にリスクを伴うものであるといえる。

集団的目的合理性

政治というのは目的合理的な仕組みであるとは言い難いものであるので、目的合理的な意志決定とは違うと言えるのかもしれないが、その政治参加を義務とすることで、主権者に政治的目的合理的に行動するよう誘導し、それによって目的合理性の衝突による摩擦が起こりやすくしているとも言えそうだ。政治とは、本来的には、個人では解決できないような問題がおきた時にそれを解決するための機能であると言えそうで、それはなるべく小さい規模、自由意志の働きやすい市場での調整、そして近所や顔見知りでの協力関係そしてそれでも解決できないほどに問題が明確化され、集団的に目的合理的にまとまれそうだ、となった時にのみ、大規模、広域での政治的解決が求められるようになるのではないだろうか。個々人の目的合理性を犠牲、あるいは他者に押し付けてまでやらなければならない政治など、百害あって一利なしではないだろうか。

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