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【Lonely Wikipedia】ダライ・ラマとパンチェン・ラマ

ダライ・ラマとパンチェン・ラマの関係性がちょっとわかりにくかったので、それを整理してみる。

1940年2月22日,拉莫頓珠被送到西藏布達拉宮,舉行坐床儀式,正式升座成為达赖喇嘛,國民政府、尼泊爾、不丹則派代表參與。而在吳忠信建議下,國民政府批准其免於「金瓶掣籤」。雖然西藏習俗中並無「主持人」一說,中華人民共和國主張是由吳忠信主持達賴喇嘛轉世,理由包括電報中多次使用「主持」二字,亦明顯花費許多心力主持活動。但是這個說法也引起爭議,茨仁夏加認為並沒有證據指出是由其主持,梅爾文·戈爾茨坦亦表示該說法不可信。後來丹增嘉措在拉薩大昭寺舉行剃髮儀式,剃度成為沙彌,開始達賴喇嘛的見習修行。

1940年2月22日、ラモ・トンドゥプはチベットのポタラ宮に派遣され、国民政府、ネパール、ブータンの代表者が参加する中、正式にダライ・ラマとして就任するための儀式を行った。
呉忠信の助言により、国民政府は彼に「金瓶掣籤」の免除を与えた。

经过诸多过程,最后在1949年6月3日,由处于广州的国民政府代总统李宗仁颁布文书:“青海灵童宫保慈丹,慧性澄圆,灵异夙著,查系第九世班禅额尔德尼转世,应即免于掣籤,特准继任为第十世班禅额尔德尼。”8月10日,国民政府专使关吉玉(时任蒙藏委员会委员长)和青海省政府主席马步芳的代表马继融参加了在塔尔寺举行的坐床大典,并颁发了汉、藏文合璧的“西藏班禅行辕堪布会议厅”印鉴。班禅堪布会议厅邀请拉卜楞寺拉科活佛拉科·晋美赤烈嘉措为贡布慈丹剪发,取法名“罗桑赤烈伦珠确吉坚赞”,简称“确吉坚赞”,并受沙弥戒。8月26日,中国人民解放军占领兰州,青海局势混乱。班禅堪布会议厅带着十世班禅避居六世班禅的驻锡地香日德。临行前,十世班禅向嘉雅经师交代任务,让他在塔尔寺挑选一些可靠的喇嘛,到西宁观察解放军的举动,及对待藏民和宗教的态度,在弄清楚后向嘉雅经师汇报。同日,国民政府专使蒙藏委员会向堪布会议厅表示,希望可以在合适的时候接班禅及少数随行人乘飞机前往台湾。

44年にパンチェン・ラマ9世の生まれ変わりとして確認の儀式を行なったゴンポ・ツェテンは、ガシェ政府からの承認がなく、継承が認められていなかったが、49年6月3日になってついに、公衆の国民政府大総統代行の李宗仁が、金瓶掣籤(ラマを選ぶためのくじ引き)を免除してすぐに10世とすることを認めるという文章を発布した。8月10日には国民政府からの出席を得て、アムドのクンブム・チャンパーリン寺で、新たに10世となる儀式が開かれた。26日には人民解放軍が蘭州を占拠したことにより、国民党はパンチェン・ラマが台湾へ飛ぶという可能性を示した。
その後、9月には人民解放軍が西寧を占領し、パンチェン・ラマ10世は共産党に協力することを決めた。
10月1日に中華人民共和国が成立すると、中共中央委員会主席で中央人民政府の主席でもある毛沢東と、人民解放軍総司令の朱徳に電報を打った。

ダライ・ラマ14世の話は創作ではないか、との疑いも出ているようだが、なぜそのような創作をする必要があったのか。
そもそも、ダライ・ラマとパンチェン・ラマは何が違うのだろうか。そこに違いがあれば、二人の間で化身ラマをめぐっての争いは起きないはず。

チベット語ではトゥルク(ラテン文字慣用表記:Tulku, チベット文字:སྤྲུལ་སྐུ, ワイリー方式:sprul sku)であり、化身を意味するサンスクリット語のアヴァターラに相当する。
また、チベット語にはリンポチェ(ラテン文字慣用表記:Rinpoche, チベット文字:རིན་པོ་ཆེ་, ワイリー方式:rin po che)という言葉がある。これは本来、如意宝珠の意味であり傑出した仏道修行者に与えられる尊称である。トゥルクの認定を受けた仏道修行者は、一般にリンポチェの尊称で呼ばれることになるが、リンポチェがすべてトゥルクであるとは限らない。
中国語では、トゥルクおよびリンポチェに対して、活佛を訳語に充てることから、日本でもそれらに対して活仏(かつぶつ)・転生活仏(てんしょうかつぶつ・てんせいかつぶつ)という訳語が使用される事が多い。ただし、これら中国語・日本語の「活佛(仏)」「転生活仏」という訳語の妥当性については、議論がある。「トゥルク」と「リンポチェ」の混同の問題、実際には「仏陀(如来)」「菩薩」「過去の偉大なラマ」の化身の別があるにも関わらず、「活佛(仏)」「転生活仏」とすべて仏(佛)と表現している問題、「活仏」の字面によってこれを「生き仏」と言い換えてしまう問題、などである。

化身ラマは日本語であって、チベットではラマとは呼んでいない、ということらしい。

ラマ(チベット語:བླ་མ་, ワイリー方式:bla ma, ラテン文字慣用表記:Lama, 漢語表記:喇嘛)とは、チベット仏教における僧侶の敬称の1つ。「上師」と訳されることがある。サンスクリット語のグル(師匠・導師など)に相当する。
チベット語で上人(しょうにん)あるいは聖人という意味であり、俗にいう「無上」という解釈は誤り。異説として、バラモン(brāhmaṇa)から来ているのではないかという仮説がある。吐蕃王国初期の時代にはヒンドゥー教の学匠に対して用いられた用例もある。
チベット仏教の僧侶を総称して「ラマ僧」と呼ぶことがあるが、本来ラマとは(自らの)師匠たる僧を指す語で、修行僧を一般的にラマ僧と呼ぶのは誤りである。
必ずしも化身ラマ(チベット語ではトゥルク)であるとは限らず、転生継承ではなく修行によってラマとなる者もいる。このように漠然と宗教上の師を指す語であり、日本語で俗に言う和尚に近いニュアンスである。
高僧に対する尊称としてはリンポチェ(至宝者)という称号も多く用いられる。

師匠、というような意味なのでしょうか。仮に順序をつけるとしたら、トゥルク、リンポチェ、そしてラマ、というようになりそうなのかな?(これら全て個人的解釈です。)
化身ラマの制度を見るとさらにややこしくなるので、ダライ・ラマとパンチェン・ラマの関係に絞る。

 ダライ・ラマはゲルク派の有力な宗教指導者から始まった転生ラマ制度であったが、ダライ・ラマ5世の代に至ってチベットを支配する政治的権威をも身にまとうようになった。

ゲルク派の始祖であるツォンカパ自体は個人的には優れた人だったのではないか、と思うが、

ツァン派政権ができる少し前の1556年、モンゴルはチベットを攻撃してゲルク派の僧侶を捕虜とした。モンゴルの長アルタン・ハーンはゲルク派の教えに惹かれ、1577年にゲルク派デプン寺の座主スーナム・ギャツォを招き、ゲルク派に帰依した。そして、スーナム・ギャツォにダライ・ラマ(知恵の海)の称号を与えた。なお、スーナム・ギャツォはダライ・ラマの称号を得る前から高僧のトゥルクと見なされていたので、その転生前の人物が1世と2世とされ、スーナム・ギャツォはダライ・ラマ3世となった。この時点でダライ・ラマはゲルク派の活仏の一人にすぎず、まだゲルク派の代表格にはなっていない。

モンゴルからアルタン・ハーンが入ってきてその孫がダライ・ラマ4世になったことで、ゲルク派自体変質してしまったように感じる。ツォンカパが創設したとされるガンデン寺がその名になったのもおそらくこの4世か5世の頃ではないかと思われる。そして、そこで弥勒信仰が入ってきたのだろう。

ダライ・ラマ5世が生まれたのはダライ・ラマ4世が死去した1617年、チベット暦の9月23日である。生誕地はラサから南東に100キロメートルほどのヤルルン渓谷にあるチョンギェーで、この地には古代チベット王国(吐蕃)の墓所があった。また、彼は高位の貴族、ルカン族の長の家の生まれであり、母はツァン王とのつながりがあった。その宗派は攻撃色が薄いニンマ派であった。また、パクモドゥ派に縁故がいた。
デプン寺は神託に基づき、ダライ・ラマがチョンギェーに転生したと考え、1619年、このルカン族の子をダライ・ラマ5世の候補者の一人と見なした。一方1620年、ゲルク派を支援するモンゴルがラサに軍を進め、ツァン王の軍と対峙した。結局、ロサン・チェーキ・ギェンツェン(後のパンチェン・ラマ4世、以後本記事では称号を得る前も含めてパンチェン・ラマ4世と記す)とガンデン・ティパのツルティム・チュンペルの仲介により、モンゴル兵の撤退と引き換えに、ツァン王プンツォク・ナムギェルがゲルク派に土地を返却することで決着した。
土地を取り戻したゲルク派は、ダライ・ラマの転生者探しを再開した。候補は3人であったが、パンチェン・ラマ4世ともう一人の僧が占いにより、このルカン族の長の子に決定した。なお、ダライ・ラマ選定テストの一つとして、転生前のダライ・ラマの遺品を当てさせる、という方法がある。ダライ・ラマ5世は後に自著の中で、自分がこのテストで何一つ当てられず、選ばれたのは母がツァン王に関係していたという政治的な理由であったと教えられたとのエピソードを披露している。

ダライ・ラマ5世が本当にルカン族の長の子であるかは怪しいのではないか。おそらくモンゴルがモンゴル族の中から選ばせたのではないか、という感じを受ける。

1616年,四世达赖死后,又回到拉萨,兼色拉寺、哲蚌寺寺主,周游各寺,研究经典,精通五明,主持写成甘珠尔大藏三部,塑像造寺。受藏巴汗之请,寻认五世达赖灵童,迎至哲蚌寺为其剃度,授法戒。

パンチェン・ラマ4世(称号を得る前)は、ダライ・ラマ5世の師匠筋であったということ。

1645年,固始汗授予“班禅博克多”尊号,是为班禅名号之始。

45年になって、グーシ・ハーンによってパンチェン・ラマの称号が与えられた。

パンチェン・ラマの名は、ダライ・ラマがその名に箔をつけるために師匠にもラマの名を名乗らせたもののようだ。一方で、それを与えたグーシ・ハーンは、これまでチンギス・ハーンの子孫しか名乗れなかったハーンの名を、ダライ・ラマ5世の力によってオイラトのトゥルバイフが名乗ることができるようになったことによる名乗りで、ダライ・ラマはその地位を利用して地位のロンダリングのようなことを行なってあちこちに恩を売ったようだ。これは、モンゴル直系にも、そしてチベット内部でもあまり支持が広がらなかったためでもありそう。

そんな無理をしたためか、

死亡時のダライ・ラマ5世の影響力が非常に高かったため、ダライ・ラマ5世は執政のサンギェ・ギャツォに対し、しばらくは自分の死を隠匿し、決めかねることは5世の守護尊マクソルマ神の前でタクディル占いで決めるように遺言した。戦争相手のラダックはこれに気付かず、1684年にチベットに降伏して属国になっている。それまで替え玉を用たり、禅定中を理由に面会を断るなど清・モンゴル諸勢力の目をごまかしてきたサンギェ・ギャツォは1696年になってようやくその死を発表し、翌1697年に自分が探してきた少年をダライ・ラマ6世として即位させたが、沙弥戒をパンチェン・ラマに返上してしまう事態が起こるなど、6世自身のやる気のなさもありモンゴル高原諸勢力や清の同意を得られず、サンギェ・ギャツォは1705年にオイラトホショートの軍に殺され、ダライ・ラマ6世は1706年に廃位された。

後継にも拒否される状態だった。そのあとは清が介入して、13世になるまではダライ・ラマが政治に関与することはなくなった。その間はずっとパンチェン・ラマが清との外交などを取り仕切っていた。パンチェン・ラマ6世が亡くなった後に、その弟が遺産を求めてグルカ族を頼ったことにより、グルカ族の介入が始まった。それがグルカ戦争を引き起こし、そして清が介入し、ダライ・ラマやパンチェン・ラマの転生者の認定にくじを用いる金瓶掣籤の制度が導入された。
パンチェン・ラマ7世が存命の間は政治も安定していたが、その後8世が29歳で早世し、代わりにダライ・ラマ13世が現れたことで、チベットが乱れ始める。
何をやったかはこちらで。

一方、パンチェン・ラマ9世は、

1923年,班禅喇嘛在和十三世达赖喇嘛土登嘉措发生冲突后,他自己寺庙的喇嘛被禁止在拉萨的噶厦政府担任任何要职,而且他的官员在拉萨遭到囚禁;班禅喇嘛觉查到对自身的威胁,他借沐浴之期从藏北高原经甘州、凉州逃亡到了内蒙古。
在内蒙古期间,班禅喇嘛致力于规划西藏的现代发展路线。
他抵达北京,向大总统曹锟报告了西藏政局和整饬边防的意见,候命期间到山东、南京、上海、杭州、甘肃、青海、东北、内蒙等地游历讲佛。

23年にダライ・ラマ13世と対立し、モンゴルに逃れ、その後北京に行き、中華民国で布教を行なったとのこと。

これでチベット問題のところに書いたところにようやく繋がる。

大変だったところがだいぶ片付いたような気がする。

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