いかにして分業を成立させるか

分業成立のためには、それぞれの人が自分の得意なところに特化して比較優位を発揮する、ということが重要になってくる。そして、その特化された部分が最適組み合わせとなれば分業がうまく作用しているということになるのだろう。そこで重要になるのは、特化というのも、最適というのも、社会的、客観的に定まるものではなく、主体的、主観的に個々人が選んで決めてゆく、ということであろう。

組織の最適と個人の最適

組織で定まる分業というのは、組織の中で最適な仕事の振り分けがあり、その椅子、すなわちポストをめぐって競争が行われ、そして椅子を得たものは、その椅子に従って自らを特化してゆくという本末転倒なことが行われているように感じる。つまり、特化された仕事についた椅子が個人よりも先に存在し、それをめぐって競争の結果最適配分がなされることで、組織という社会的な基準によって、個人の意志よりも組織の客観的意志が優先されて分業が定まるということになっているように見受けられるのだ。それは、組織にとってはもしかしたら最適なのかもしれないが、個々人にとっては常に競争を強いられ、必ずしも自分の意志と一致するとは限らない仕事を優先しなければならないという、最適とは言い難い分業構造となっていることを意味する。

個人の社会的行動による分業体制のために

これを個人中心の分業体制とするにはどうしたら良いだろうか。常々書いているように、個人の社会的行動は、目的、問題意識、方法論に基づいているのではないかと私は考えている。つまり、社会をどうしたいのか、そこに至るまでのボトルネックは何か、そしてそれを解決するにはどうしたら良いのか、ということを一人一人が持っており、それの組み合わせによって社会が成り立っているのではないかという考えだ。目的が薄くなると、社会自体が方向感を失って不安定化し、問題意識が薄れると他者依存が強まって社会が硬直化し、そして方法論に独自性、工夫がなくなると競争や力比べといった強引な手法が蔓延ることになる。だから、この三つの要素を個々人がしっかり確立し、それに基づいて行われるミクロの社会的行動の組み合わせによって社会が動くというのが理想ではないかと考えている。

組織ありきの社会運営

現状においては、目的の一致が組織によって、問題意識の一致が部署によって、そして方法論はその組織・部署の引き継ぎやマニュアルによってそれぞれ管理されることで、組織ありきでの社会運営というものがなされていると言えそうで、そのために、組織次第で社会の方向感や社会への依存心が定まり、組織はそれを活性化させるためにポスト・予算争いなどで競争や力比べを強いるという、個人よりも組織の都合で動いている社会になっているのだと言えそうだ。

方法論の棲み分けによる分業

これを個人中心のものに変えてゆくには、まずはその目的、問題意識、方法論の三つを個々人が主体的に確立する必要があるだろう。その確立のためには、積極的、消極的の二つの方法があると言えそうだ。積極的な手法は、自らが目的合理的に動くことで、目的から問題意識、方法論という具合に、自分のやりたい、自分に合ったやり方で固めてゆくという方法だ。これで全てうまくいけばそれに越したことはないのだが、目的というのは他の人と重なることもあり、その中で、摩擦や効率性の観点をいれると、全て自分でやることと他者と共同でやることのどちらが良いのか、ということが問題として浮かび上がってくるのだと言えそう。まず、効率性の観点から見ると、目的が重なり、問題意識も共有されているのならば、共同で行った方が効率的になる可能性が高そうだ。そこで分業によって仕事を分けて効率を上げるということが考えられそう。そうすると、どうやって仕事を分けるのか、ということになりそうだが、そこで方法論の問題となるのだろう。それぞれがそれぞれのやり方を持ち、それによって問題意識にアプローチしているわけであり、それがバッティングしないように組み合わせが行われればうまく分業が成立するということになりそう。

独自の方法論確立のために

そこで考えられるのが消極的な手法で、つまり、嫌なことはやらないというやり方で自分の方法論を確立するというのはどうか、ということだ。嫌なことを嫌だときちんと言える状況になることで、方法論における競争や力比べを防ぐことができるようになり、それによって分業に伴う摩擦を減らしてゆくことができ、結果として最適な分業が成立するのではないだろうか。嫌なことは、目的、問題意識、方法論の自分の中での一貫性とどこかでずれているから嫌だと感じるのだと考えられる。だから、嫌なことを嫌といって、その理由を探ってゆくことが、自分というものを発見することにもつながるのではないだろうか。そして、問題意識は、それぞれ固有の嫌という感覚から生じるのではないかと考えられるために、嫌という感覚を研ぎ澄ますこと、そしてその理由づけを自分の中でできるようになることこそが、結果として社会的関心にも繋がっていくのだろう。

組織の限界

ここで私個人の感覚に従ってもう少し話を広げてみると、私はどうも組織というものに本能的な嫌悪感を抱いているようなので、その嫌悪感の理由を探るというのが、なんとなくこのところのテーマのような感じになっている。そこでその観察結果のようなことを見てみると、現状の組織では、方法論が組織によってほぼ定められているために、そこに個人による創意工夫の余地、それぞれの問題意識に則した対応というものが非常に限定的で、その定型化された業務を手際よくこなしてゆく、ということが組織における”実力”となり、その実力をアピールするための競争や力比べが行われているのだと言えるのではないだろうか。しかしながら、方法論の革新ができなければ、問題意識は硬直化し、そして結果として組織という社会は不安定化してゆく。つまり、方法論はなるべく多様で柔軟であるべきであり、そうなると果たして組織というもの自体、最適な分業を成り立たせるのに必要なものであるのか、ということが問われることになりそう。

組織の存在意義はどこに

現状では、組織は、目的がアプリオリに決まっており、問題意識も機能的にすでに分類済みで、そしてその中で定まった方法論を効率的にこなすことが実力であると看做されるということで、方法論の処理能力をめぐって競争するだけの、なんとも味気のない社会だということになっているのではないか。そこまで自動化されているのならば、機械に置き換えてしまえばそれで済むのだろうが、そうはなっていないというのは、その自動化が見掛け倒しなのか、それとも雇用を守るために仕方なく、という言い訳を準備しているのか。その辺りを含め、組織というものが現在でもまだ必要とされているのか、仮にまだ必要であるというのならば、その最適な形態はどのようなものなのか、そしてそれは果たして最適な分業を実現するものなのか。様々な議論が必要になってきそうだ。

こんな話になってくると、メタの観察と、自分のやりたいことというのがまたごっちゃになってくるという未分化状態に突入してしまう。この辺りのミクロとマクロの分岐点というか接触面というか、そこについてはさらに観察なり理解なりが必要になってきそう。なんかまとまらない終わり方になってしまったが、今日はここまでにしたい。

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