時空の共通性幻想から生じる問題

「普通」という感覚はどこから生じるのか。

「普通」

コミュニケーションにおいて、「普通」という言葉を発したくなる時というのは、自分のいる価値観時空が一般的なものであると信じていた時に、それとは違った原理で何かが動いた時、「異常」を検知し、それに対して「普通・・・では、」といって自分の価値観時空の感覚を説明する、といった時ではないだろうか。

主観的価値観時空の普遍化

人は、自分の価値観時空の中で認識を形成し、その中に常識的なことを織り込むことで、その価値観時空が普遍的なものであるとある程度信じて他者と接することになる。そうした時に、その普遍性を持つはずの価値観時空と相反するような事態に直面すると、それを整理するために、自らの主観的なものである価値観時空を普遍的なものだとし、「普通」という言葉でその事態に対して対応することになるのだろう。

時空の共通性幻想

これは、同じ文化圏に属していれば、価値観時空も同じようなものであろうという、時空の共通性についての幻想があることから生じる問題であると言える。よく外交などで、共通の価値観、といった言葉が出てくるが、それは、この時空の共通性を確かめるような意味があるのだと言えよう。時空を共有していないと、対話はすれ違い、なかなか常識をすり合わせることができなくなってしまう。

時空の座標空間

前にも書いたが、時空をうまく表現するような座標空間というのはまだないのでは、と私は考えており、すなわち、それが時空が共通であると考えないと、座標空間での抽象的な思考が噛み合わない理由になるのでは、という気がしている。つまり、お互いが、それぞれの三次元座標のようなもので対話しながら思考を整える時に、その座標軸が同じであるとしないと、思考は噛み合わないということだ。時空には時間軸があり、その起点や、ましてや進み方が違うということになったら、思考が全く噛み合わないことになる。そこが共通であるという幻想が、会話の原点を合わせて同じ三次元座標で思考を合わせることができるようにするのだと言える。

動画的イメージによる思考同一化

このところのインターネットの急速発展により、理論的な時空座標空間の代わりに、動画的イメージのようなもので思考を合わせるということが行われているようにも感じる。それは、さまざまな話が動画となって伝達されるので、時間の原点や座標軸があっていなくても、直感的にそれを合わせることが可能になっているように思われる。しかしながら、それは実際の会話に至った時に具体的にすり合わせをしない限りは、時空の共通性幻想で、お互いわかったような感じになって話を合わせるということになり、すれ違いが生じた時にどこから確認したら良いのかわからないような状態となって、論理的な会話が成り立たなくなる、ということが生じかねない。

動画的イメージのリスク

それは、社会全体が、わかったような雰囲気だけで動くということになり、どこかでずれてきたとしても確認もできないまま押し流されてゆくという、非常に危険な空気任せの世の中になってゆくことにつながりそうだ。つまり、時空が共通であると信じていたら、いつの間にか「普通」と思っていたことからどんどんずれてゆき、それでも「普通・・・では」と言えないままどんどん流れが加速してゆくということが起こりかねない、ということだ。
価値観が多様化する中、みんなが共通の価値観時空を持っているのだ、と想定する方が難しい状況になってきているのだと考えられる。
その中で、動画的イメージによって時空の共通性幻想を持ったとしても、その動画イメージが対話の相手と同じであるという保証はどこにもないわけで、そして動画というのは静止画よりもはるかに違和感を逐次指摘するのが難しい。「今どういうこと?」と聞いている間に話がどんどん進んでしまって流れから取り残される、といったことも簡単に起こりうるわけで、そうなると違和感を抱いても確かめもせずにそのまま流さざるを得なくなり、そうしているうちに感覚が麻痺してしまい、違和感を持つこと自体まれになってゆくかもしれない。そんな状況になると、社会全体がおかしな方向に進んだとしても、誰も違和感を示すことなく、流れのままに動いてゆく、ということがあるのかもしれない。

違和感表明の重要性

多様な価値観のそれぞれの良さを生かしてゆくためにも、共通の価値観時空を持つという幻想を離れ、いかに違和感を交換し合うことができるような時空のすり合わせができるのか、ということを考えてゆく必要があるのかもしれない。そのためにも、動画的イメージでわかったような感覚となり、集団で勢いに乗って動く、というような共通時空幻想の暴走を防ぎ、まず動画の速度を落とす、つまり動画が入ってきたらすぐに反応する、というような習慣をやめ、むしろ動画がきたこと自体おかしなことだと自覚し、何がおかしいのかよく確認して違和感を表明する必要があるのだろう。

時空共有のあり方

時空の共有は実際の具体的対話によって初めて行うことができ、そしてそれはすぐに全てが共有されるわけではなく、少しずつお互いの理解の範囲が広がり、それによって共有部分が次第に広がってゆくのだ、という感覚を大事にすることが重要なのではないかと感じる。


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