社会的医療の時代

感染症が頻発する時代となり、医療が個別の肉体的原因に帰されるものへの対応から、より社会的要因に注意を払うべきものへと変質していると言えるのかも知れない。

新型コロナウイルスと社会的予防策

新型コロナウイルスは、対症療法であるワクチン開発が遅れたためもあり、ソーシャルディスタンスなどの社会的予防策が先行して行われるという、これまでの医療の風景を一変させるような事態を生じさせたと言える。

社会的予防策は、もちろん医者は高度な知識人なので、当然社会に関する知識も豊富であろうが、医学的見地からだけでは見渡せない部分の考慮が必要となる。予防策がわかるほどに原因が明確ならば、当然にその治療法も明らかになるはずであるが、そうではないから社会的予防が求められるわけであり、そうなると医学的要因以外の何らかの要因があって、それを遮断するために社会的予防が求められると考えるべきなのかも知れない。逆説的には、医者によって提案された社会的予防策では、感染症予防はままならない、ということが言えるのかも知れない。

社会的予防策の策定条件

では、社会的予防策はいかにして策定されるべきなのであろうか。それは、社会という構造に基づいて考えられるべきものであり、社会的予防に必要なのは、策定された予防策を徹底するというよりもむしろ、策定段階の議論がどれだけ透明で納得を得るものであるか、ということなのではないかと考えられる。納得の得られない予防策をどれだけ徹底したところで、予防策といういわばおまじないの魔力が低い、つまりそれを信じればよくなるのだ、という確信が伴わななければ、その効果は限定的にならざるを得ないだろう。そして、その役に立たないおまじないの効果が低くなればなるほどに、その策定責任者の責任問題となり、さらに社会的不信感が高まるという悪循環の元になるのだと言えそうだ。

社会的予防策と権力

納得の得られる予防策の策定というのは非常に難しい。というのは、医者にも当然それぞれの立場があり、治療法に至る道筋にもそれぞれ意見があるだろうし、そしてその治療法の先にはスポンサーとなるような製薬会社などの存在があるだろう。そうなると、治療法をめぐる鞘当ての中での社会的予防策策定となる。有識者にしても、同じようにそれぞれ立場があり、だからこそ議論が必要であるということはあるのだが、予防策というのは社会コントロール手法であると言え、それは巨大な権力の源泉であると言えるので、その権力の魅力を封じるような仕組みがなければ、それぞれ自分の社会管理手法を提示してそれによって見える風景を確保しようとするのであろうから、なんであれその結果出てくる予防策は監視的、管理的な社会へと導かざるを得なくなるだろう。

ワクチン接種という固定観念

これは、感染症への対応が医学的固定観念に縛られているためだとも言えそうだ。つまり、ウイルスで拡散する感染症はワクチンで治療する、ということになっているが、上のおまじないの話ではないが、患者に対して風邪薬でも出したり、もしかしたら薬すら必要なく、お医者さんが大丈夫、の一言をかければこれほどの大騒ぎになる必要もなかったのではないかということだ。この風景を見てみると、このワクチン治療至上主義のために莫大な資金を投入してワクチン開発を行い、それを大規模に接種して治療するという、産医複合体とでも呼べるような巨大ビジネスが、国家ぐるみ、あるいはもっと広く国際社会ぐるみで推し進められているという風にも解釈できるということだ。製薬会社としては、莫大な開発費をかけても時が経てばジェネリックによって安く複製されてしまう一般の薬よりも、国家事業として政府予算から安定して収入が期待出来るワクチンの予防接種、それも何回にもわたってそれを行う、という方がはるかに計画が立てやすく、安定して高い利益を上げられる。政府としても、大々的にワクチン接種を行なって感染症制圧をした、という方が、成果のアピールのためには効果的だということもある。有識者にしても、その制圧の過程に自分の文脈を織り込むことができれば、その波及効果は非常に大きくなる。

現場の治療と中央の政策立案

しかしながら、実際の効果で見てみると、集団で一般的に効果があるとされるワクチンを接種するよりも、個別に医者がよく話を聞いた上で安心をさせながら診断を下し、処方箋を書いて薬剤師がまた患者の様子を見ながら薬を詰めるということを通じて患者の周りの環境を調整してここでも安心を作り出す、ということで、個別に内面心理と外的環境を整えるということの方がはるかに有効な社会的予防・治療法であると言える。

現場の最も有効な直接的な社会的予防・治療法を放棄して、中央集権的なワクチン一括接種、そしてソーシャルディスタンス的な社会的隔離政策とも言える政策を、まともな民主的手続きも踏まずに中央主導で行うという、エリーティズムとも言えるような政策立案方式は非常に大きな禍根を残すのではないかと危惧される。プラシーボは信頼関係があれば効果的に作用するが、中央の押し付けでは、いくらワクチンが効くのだと言われても、不信感からその効果を減退させるかもしれない。

非民主的政策策定と社会を覆う空気

民主主義が絶対の解であるとは思わないが、民主的手続きを踏まずに定められた社会管理手法である社会的予防策が社会構成員の納得を得られるものなのかは、少なくとも理論的には即座に示すことのできるものではないことは明らか。その上で、こういう疑い深い考えはよくないのだろうが、中央集権的に対策が取られる中、新型コロナの診断、そしてさらには匿名のビッグデータとして集められるその集計者数に、中国の大躍進時代に起こったような水増し的な恣意的なデータ操作の疑いはないだろうか。そのようなことを通じて社会的予防策によって情報操作を行い、情報による社会管理の実験も同時並行的に行われてきたということはないのだろうか。

この新型コロナ騒動を通じて、素人にはなかなか判断の難しい情報によって社会が暗黙の空気によって支配される度合いが一気に広がった、というようなことがなければ良いと思うが、これだけ長引くと、以前の社会の様子がどうだったのか、ということすら忘却の彼方に押し流されてしまうようにも感じ、色々な変化が新型コロナに全て集約されて単純化されてまとめられるのではないかと恐れている。そのまま支配の空気に飲み込まれることがなければ良いと思うが、大きな不安を感じている。

いずれにしても、医療の社会化に従って、それが支配の道具に変わってゆくことが内容十分に注視していく必要がありそうだ。

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