海部俊樹の歴史的解釈

辛未(平成3年・1991年)の湾岸戦争で多国籍軍に戦費を支出し、ペルシャ湾へ自衛隊の掃海艇を派遣するという歴史の大きな転換点をもたらした時の首相、海部俊樹が亡くなった。この人物がどういう歴史観の中を生きて、その決断を行ったのか、ということを考えてみたい。

まず、直接の関わりはともかくとして、海部という姓は、海部氏系図という現存の系図の中で二番目に古いともされるものを意識せざるを得ない、ということを指摘することから始めたい。

そんな海部俊樹は、己巳(平成元年・1989年)に、自民党が参議院選挙で惨敗し、宇野宗佑に替わって内閣総理大臣となった。宇野宗介は、リクルート事件によって竹下内閣が倒れ、その後にサミットと天安門事件という難局を乗り越え、結局女性スキャンダルが出たということもあり、参議院選挙で惨敗に至った。そもそも論として、リクルート事件というのは上場前の未公開株の譲渡であり、政治家頼みの品のないやり方とはいえ、法的には問題ない。上場していない株を投資家に買ってもらうということが問題であるとされれば、株式会社の仕組、資本主義は根本から成り立たなくなるからだ。株式保有が政策に及ぼす影響を言うのならば、政治家の株式保有自体を禁止すべきことであろう。それは、共産主義体制の揺らぎにより、マルクス主義の思想が混乱したことから生じた壮大な勘違いだと言って良く、まさにイデオロギーが宗教化した瞬間であるとも言えよう。そしてそれは、竹下内閣が、世界史的大変動の中で外交の難局を乗り切れない、ということで、言い訳として膨らませたような人為的なスキャンダルであり、最初から宇野宗佑をはめるためのものであったと言って良い。実際、宇野は未公開株を受け取っておらず、閣僚の家族の資産公開まで行うことによってその信頼性を確保しようとした。それに対して、海部の唯一の売りは、リクルートからの未公開株を受け取っていなかったということであり、にもかかわらず閣僚に入ることもできなかった人物であった。宇野政権の家族を含んだ資産公開によって、クリーンの基準を満たす人材が全て払底しており、海部はそのような無理筋を通さなければ決して総理になどなれる人物ではなかったと考えた方が良いだろう。もし能力があったけれども閣僚入りできなかったとすれば、受け取っていたが、宇野内閣の2ヶ月の間にそれを処分したのだ、と考えざるを得ないからだ。

なぜそこまで宇野が狙われたのか、というのは非常にロングスパンの歴史的な話になる。宇野氏というのは播磨の名族で、どうも室町時代の四職の一つである赤松氏の主家筋にあたるようだ。宇野氏という名から想起されるのは、持統天皇の諱である鸕野讚良で、個人的には鵜飼いに関わるのではないか、と考えている。海部というのは海人部で、海産物に関わるとされ、職業的にはライバル関係にあたったのかもしれない。それはさておき、その宇野氏の勢力圏である播磨に、室町時代になって入ってきたのが播磨三木氏と呼ばれる、伊予河野氏の流れを汲むとされる勢力で、江戸後期には姫路の大庄屋となったようだ。播磨というのは、風土記が残っているということもあり、歴史的には非常に重要な場所で、その歴史をおさえている宇野氏というのが、他所から入り込もうとする勢力にとっては目障りであり続けた、ということがあるのだろう。特に、持統天皇は、大海人皇子、つまり天武天皇の妻であり、しかも天智天皇の娘でもある。もし仮に(叔父姪婚という近親婚を疑って)大海人皇子が天智天皇、すなわち中大兄皇子の弟であるという話が作られたものだと考えると、大海人皇子は天智天皇の娘婿であるということでしか正当性を確保できないことになり、そうなると持統天皇の方が血統で優れているということを認めざるを得なくなる。つまり、これは父系の外戚と、母系の外戚の争い、と言う見方でも捉えることができそうだと言うことがある。その見立てが正しければ、そのような歴史的なコンプレックスを、海部という姓の人物が宇野という姓の人物に対して抱いており、それで狙い撃ちにした、という、政治とは全く別次元の、非常に陰湿な話となる。その見立てを裏付けるかのように、海部俊樹の政治的師匠は三木武夫という三木姓の人物であり、そして政治的地盤は河野金昇という河野姓の人物から引き継いでいる。そしてこの時期は昭和天皇が亡くなった直後であり、さらには当時の皇太子の結婚問題が一大テーマとなっている時で、結局癸酉(平成4年・1993年)に結婚に至ることになる。そのような時期に、歴史を政局の道具にして権力闘争を仕掛けていた一派の中に海部俊樹はいたと考えられるのだ。

さらにみてみると、宇野宗佑の女性スキャンダルをすっぱ抜いたのは『サンデー毎日』で、当時の編集長は鳥越俊太郎であった。政治家の女性スキャンダルを記事にするなどという下品なことは、それまではマナーとしてなされていなかったのだが、これがその口火を切ることとなり、その後の政治の劣化の大きなきっかけとなったといえる。しかも、裏切られたことになるはずの宇野の妻はそれはないと信じていると言っており、宇野がスキャンダルになるような行為をしたとは到底思えない。冷戦終結前後という世界史的に非常に重要なときに、フェイクニュースによって、リクルート事件というイデオロギー闘争を収めサミットと天安門事件という重大なイベントに対して欧米に対してきちんと日本の立場を伝えてアジアが大混乱に陥ることを防いだという非常に有能な総理の首を飛ばし、後継に憲政史上で下から数えた方が早いような総理をつけたことのツケを、その後の失われた20年、30年で払わされ続けていると言っても過言ではないだろう。それはともかく、鳥越俊太郎の実家は九州福岡の鳥越製粉という製粉業者である。宇野内閣が成立する前年戊辰(昭和63年・1988年)に、鳥越製粉は米粉50%入、国内産小麦粉使用の天ぷら粉「揚げ上手」を発売したという。一方で、その2年ほど前から隣の佐賀県で吉野ヶ里遺跡の発掘が始まっており、邪馬台国論争が大きな盛り上がりを見せていた。第二次海部政権の時に吉野ヶ里遺跡は国の史跡に指定されている。その時の文部大臣は佐賀出身の保利耕輔であり、またリクルート社は文部省と大きな関わりを持つ企業であった。それと同期するかのように、海部のお膝元愛知県では、東名阪道路の工事に伴って清須の朝日遺跡の発掘が行われ、東海地方最大級ともされる大遺跡が見つかっている。また、海部が地盤を受け継いだ河野金昇が住んでいた一宮では、日本最古の前方後方墳ともされる西上免遺跡が見つかっている。尾張西部は木曽三川が流れ込むところで非常に洪水が多く、また、川の流れも大きく替わっている。そしてそう古くない時期まで海がかなり内陸まで入り込んでいたとされる。前方後方墳は東国に多いともされ、尾張に最古のものがあると言われてもなかなか信じ難い。また、清洲は織田信長ゆかりの地であり、清洲越しの元となった場所で、名古屋の起源を主張する立場にある。そして、清洲城の天守は、己巳(平成元年・1989年)に旧・清洲町の町制100周年を記念して建てられた復興天守である。これは、稲作の伝来、邪馬台国論争、さらには織田信長英雄伝説などを織り込みながら、海部氏が、他所から婿養子として入ったのではないかと疑われる大海人皇子系の話を裏付け、正当化するために、ありとあらゆる手段を用いて工作を行い、そしてその歴史的文脈を用いて政治状況を自らの有利になるように運ぼうとする、許し難い歴史改竄による権力掌握の陰謀ではないのだろうか。

リクルート事件が表に出たのは、川崎市の駅前再開発に伴う未公開株の譲渡からであった。川崎は新自由クラブの田川誠一の地盤であり、田川は同じく新自由クラブの河野洋平の従兄弟にあたる。そして田川は朝日新聞の出身であり、マスメディアへのリークくらいはお手のものだろう。河野洋平は政治工学研究会なる会を組織しており、政治を工学的に動かそうという志向を持っていた。それは、歴史的文脈に大きく依存する手法であり、つまり標準的歴史観を持っている方が常に有利になるやり方であるといえる。名古屋には、古事記の最古の写本とされる善福寺本が江戸時代になってから出てきて伝わっている。それをベースにして政治を動かすことを考える際に、古くより正確な歴史を持っていた宇野氏が邪魔になったのでそれを潰し、そして海部俊樹が取り組み、結局細川政権下の野党自民党総裁だった河野洋平が細川護煕とともに導入した小選挙区制によって、デジタル的二大政党制の方向へ向かい、政治はより「工学的」に動くようになった。そんな河野氏は、元寇で上げた功によって家名を復活させたとされ、対外戦争によって勢力を広げるというDNAを持っている。それは、どこからきたかはわからないが、他所ものであろうと考えられる海部氏についてもいえることだ。歴史を改竄してでも他国との戦争を功名の機会とするという悪意の塊のようなこの二つの氏族によって舞台回しのされたリクルート事件から海部総理の誕生、そして湾岸戦争への積極的関与。これらにつながった歴史的文脈というのは見過ごしてはならないのだろう。

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