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記憶の狭間を埋める旅(3)

第一次世界大戦前史(1)

では今度は国際的な側面から見てみたい。日本における大正時代の前半での世界的トピックと言えば、やはり第一次世界大戦となるので、そこからみてゆきたい。まずは例の如くWikipediaから。

第一次世界大戦
第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、英: World War I、略称:WWI)は、1914年7月28日から1918年11月11日にかけて、連合国と同盟国(中央同盟国)の間で戦われた世界規模の戦争である。
7000万以上の軍人(うちヨーロッパ人は6000万)が動員され、史上最大の戦争の一つとなった。第二次産業革命による技術革新と塹壕戦による戦線の膠着で死亡率が大幅に上昇し、ジェノサイドの犠牲者を含めた戦闘員900万人以上と非戦闘員700万人以上が死亡した。史上死亡者数の最も多い戦争の一つである。
戦争が長引いたことにより各地で革命が勃発し、4つの帝国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国)が崩壊した。終戦後(戦間期)も参戦国の間に対立関係が残り、その結果21年後の1939年には第二次世界大戦が勃発した。
戦争は全世界の経済大国を巻き込み、それらを連合国(ロシア帝国、フランス第三共和政、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国の三国協商に基づく)と中央同盟国(主にドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国)の両陣営に二分した。イタリア王国はドイツ帝国およびオーストリア=ハンガリー帝国と三国同盟を締結していたが、未回収のイタリアを巡ってオーストリアと対立していたため、英仏とロンドン密約を結んで連合国側で参戦した。
諸国が参戦するにつれて両陣営の同盟関係は拡大されていき、例えばイギリスと同盟を結んでいた大日本帝国とアメリカは連合国として、ドイツと同盟を結んでいたオスマン帝国は中央同盟国側について参戦した。

Wikipedia | 第一次世界大戦

日本と直接関わる部分はいちばん最後のイギリスとの同盟によって連合国として参戦、という部分となるが、それ以外の国との関係はどうだったのだろうか。ここでは特に日清戦争の時に三国干渉として日本に遼東半島の返還を求めた独仏露を中心にこの大戦の前史と日本との関わりを追ってみたい。とは言っても、三国干渉自体に触れると本筋からどんどん離れて戻って来られなくなってしまうので、ここではその三国が日本とどのように関わっていたのか、ということを中心にして、第一次世界大戦への日本のアプローチを少し整理することにしてみたい。そこで、ここでは幕末以来日本とはかなり関係が深かったフランスを中心にしてみてみたい。

フランス第三共和政

フランス第三共和政(フランスだいさんきょうわせい、フランス語: Troisième République)は、普仏戦争さなかの1870年に樹立されたフランスの共和政体である。

Wikipedia | フランス第三共和政

フランスは当時ナポレオン三世の第二帝政崩壊後の第三共和政全盛期にあった。普仏戦争によってナポレオン三世の帝政が崩壊したということもあり、プロイセン・ドイツとの関係はずっと微妙なものがあった。どこまで読み解けるかは疑問だが、フランス第三共和政とビスマルクのページからの引用で流れを掴んでみたい。

普仏戦争中の1870年9月2日、ナポレオン3世はセダンの戦いで捕らえられて捕虜となった。共和制移行を求める運動がパリ中に広がり、1870年9月4日にブルボン宮殿の議員の一人レオン・ガンベタがパリ市庁舎で共和国宣言を行なった。

Wikipedia | フランス第三共和政

ここからドイツの様子を見るためにビスマルクのページから引用したい。

1870年10月から11月にかけてヴェルサイユの大本営において南ドイツ4邦国と交渉を行い、11月に全ドイツ連邦創設のための条約の締結にこぎつけた。ついで新たな国名は「連邦」ではなく「ドイツ帝国(Deutsches Reich)」、またその盟主は「連邦主席(Bundespräsidium)」ではなく「ドイツ皇帝(Deutscher Kaiser)」とすることが決まった。
1871年1月18日にヴェルサイユ宮殿鏡の間においてヴィルヘルム1世のドイツ皇帝即位式が挙行された。ビスマルクはヴィルヘルム1世のドイツ国民への布告を読み上げ、「連合したドイツ諸侯と自由都市の要請によってドイツの帝位につく」と宣言した。

Wikipedia | オットー・フォン・ビスマルク

1871年2月8日に議会選挙(フランス語版、英語版)が行われ、講和を主張する王党派が議席の多数をしめた。パリでなくボルドーで2月12日から国民議会が開催されると、2月17日に共和派のアドルフ・ティエールが新政府の指導者たる行政長官に選出された。彼は2月26日にビスマルクと講和予備条約(フランス語版)に調印し、ドイツに対してアルザス=ロレーヌの割譲と50億フランの賠償支払いを認めた。(1871年5月10日のフランクフルト講和条約で正式に確認された。)
こうした政府の弱腰な姿勢やプロイセン軍の祝勝パレード、3月3日のパリ占領はパリ市民の憤激を招いた。3月18日にティエールはパリの治安回復を目的とする国民衛兵の武装解除を図るも兵士の一群が抵抗した。軍の一部がコミューンに合流し、ティエールは軍と政府関係者と共にヴェルサイユに待避した。一時的に国家機構が停止し無政府状態が生じたが、市民は独自の議会選挙を行い、3月28日に革命的自治政府パリ・コミューンの成立が宣言された。これは世界史上初の自治政府でもあった。

Wikipedia | フランス第三共和政

4月16日にはドイツ帝国憲法が発布されて新帝国の体制が最終的に定まった。同憲法は北ドイツ連邦憲法とほとんど変化はなく、新たに加盟する南ドイツ諸国の特権について付記しただけであった。

Wikipedia | オットー・フォン・ビスマルク

内部対立を収拾できずにいる間、ヴェルサイユ政府はビスマルクと交渉し、捕虜となっていたフランス正規兵17万人を返還させコミューンの国民衛兵4万に対して数的優位を築くことに成功した。5月21日に始まった『血の週間』の1週間の間に新政府のヴェルサイユ軍によって鎮圧された。コミューン参加者の多くが射殺ないしは軍事法廷によって処刑された。

Wikipedia | フランス第三共和政

こうしてみると、ナポレオン三世の捕虜とドイツ連邦のプロイセン主導ドイツ帝国への動きが連動していることがわかる。そして、ここまで見ると親プロイセン派が主導する形で混乱の初期共和政は進んでいるように見える。

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