数学の限界

某所で散々やりこめられながら、まだしつこくこんなことをやっている私は本当にどうしようもないなあ、と思いながら。

数学は、数式に基づいて答えを出すことはできるが、果たして可能性を探る、という処理は可能なのだろうか。数学の基本的なルールは定義などで定まっているわけで、要するにできることしかできないのだと言える。その性質上、もし定義が間違っていたら、というような想定は当然できないわけで、まあ、数学のみの閉鎖的世界ならそれで良いのだろうが、それで全てが解決すると思ったら大間違いなのだと言えよう。特に、人間の関係性においては定義のすり合わせはほぼ無限に続くわけで、その意味で数学は常に成り立たないとすら言える。その定義の曖昧さを受け入れなければ、擬似数学的に物事を動かすことすらできないのだ。

可能性というのは、現在定義されていないことをいかに定義できるようにするかということを探るものだと言え、それは性質上数学のもっとも苦手とする分野だと言える。数学は定義されていないことがあるということを考えること自体を嫌うものだからだ。だから、閉鎖空間での効率性を求める、というようなことは得意なのであろうが、開放系のどこが原点となるかも定められないようなところで何かを求めるということは本質的にできないのであろう。少なくとも、原点を定める、ということ自体定義であり、それを数学的に求めることはできないからだ。

だから、数学は、少なくとも複数原点での計算、ということが可能にならなければ、合意というプロセスは導き出せず、常に競争による正否決定ということにならざるを得ないのだろう。究極的には、数学ではゲーム理論的ゼロサムゲームでしか二者間の関係性を求めることはできないのではないだろうか。

さらに言えば、間違いを許容しない数学というのは、どう考えても持続可能ではない。閉鎖空間で誰もが間違いをせずに走り続けるという想定がいかに無理のあるものか。それは最初からできるところまでしか行けない、という確率論の世界を織り込んでいるわけで、それが最善の結果をもたらす可能性はかなり低い。最初から達成不可能なのだったら、個別合理性の結果必ず衝突を生む数学的解決以外の方法の方が、結果としては合理的だということになる。それこそがまさに合成の誤謬問題であると言え、数学的にミクロの合理性を突き詰めたとしても、マクロの合理性には至ることがないのだろう。

個人的には、どうせ間違えるのだから、その間違いがお互いカバーされるような仕組みの方が多分効率がいいのだろうな、と思うが、それを数学的に定義できるのかどうかはとてもではないが私の能力ではわからないので、まあできることをやるしかないのだろうな、と思っている。

一方で、数学的対話法というのは、鏡のように、立場を入れ替えて同じような反応を返す、という、対話とは言い難いものになる。それは、数学的には立場の違いによる解を見いだせないので、ミラー対応をしてどちらの前提、あるいは論理展開が正しいのか、という不毛な争いを決着がつくまで繰り返す、ということになる。これは、数学というものが、デカルト的な座標空間のくびきから卒業できないために、その枠組みで押し通すことしかできないために起こっていることなのではないかと想像している。

このあり方が政治に持ち込まれることが、政治というものを退屈な非生産的極まりないものにしているのだと言える。それは、多数決制民主主義における手法としてソーシャルレバレッジとでもいうやり方が、政治的テクニックとして定着しているように見受けられるからだ。ソーシャルレバレッジとは、ちょっとだけ変化をつけた対抗案を作り、それに金や権力を結集させることで多数決原理でひっくり返すことを繰り返して全てを集権的管理のもとにおこうとする手法だといえる。それは、合意形成よりも、大きな流れへのアクセス権をいかに安く手に入れるか、逆に言えば自分の考えをいかに高く売りつけるのか、ということになり、高く売りつけるためには多くの人を巻き込んでいる、バリューチェーンを持っていることが必要となり、だから組織はどんどん肥大化してゆくことになる。

つまり、政治を数学的に行おうとすることで、市場がゲーム理論に支配され、最終的には市場は死に絶え、組織に取って代わられるようになるのではないか、ということだ。それは無謬性の論理に支配され、誰も自分が失敗しないように相手の揚げ足をとり、そして数学的に他者を抑圧することで支配権を確立するという、何の明るい未来も見えない、陰鬱な、退屈極まりない世界を作り出すことを意味する。これは、政治にそのようなやり方を持ち込んだ者が自らその誤りを認め、それを是正するよう取り組まない限りは、破滅に向かって一直線に、無謬性を持って進んでゆくしかないだろう。誰か他の人がそれに取って代わったところで、無謬性論理は変わることなく動き続けるからだ。

私は、そのような悪魔に取り憑かれそうになった時にはさっさと逃げ出すことしかできない。絶対に間違えない、などということは、それこそ絶対に言えないわけであり、そんなことを競う世界に何の魅力も感じないからだ。数学信奉者からすれば、それは個人の限界、ということになるのだろうが、私はそれは数学の限界なのだろうと考えている。

*そういうわけで、基本的に私の文章は誤謬に満ち満ちているわけで、その正否は読んでくださる方が個別にご判断していただくしかありません。できることでしたら、誤謬を見つけていただいたらご教授いただけたら幸いです。

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。