社会観察の結果としての自我 ー 資本主義と民主主義の現状

夏目漱石が『草枕』でいうように、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」という具合に、社会において自我を通すのは難しい。この自我とはいったいどのようにイメージしたら良いのか。

自我のイメージ

「智に働けば角が立つ。」というのは、社会を戦略性、つまり合理的関係性に基づいて渡ることだと考えられるか。知恵を働かせてあちこち取り入るような行動をすれば、仕事は順調に進むだろうが、あちこちで摩擦を引き起こし、角が立つことも多くなろう。これは、相手に合わせて自分の姿を変えるアメーバのようなイメージになるだろうか。
「情に棹させば流される。」というのは、空気を読み、他者と合わせることで、波風をたてまいとすることだと考えられ、そうすると周囲の雰囲気に流されてしまい、自我を失ってしまいがちになる。これは、波のようなイメージで捉えられるだろうか。
「意地を通せば窮屈だ。」というのは、他者との軋轢をものともせず自我を貫き通すことだと考えられそうで、自我は保つことができても、周囲からは浮き上がってしまい、窮屈に感じられることも起きるだろう。これは、粒子のイメージで捉えられそう。
こうして、社会サイドから見ると、自我イメージはアメーバ、波、粒子、と言ったもので捉えられそうだ。つまり、自我とは社会との関わり方次第でその姿を自在に変えてゆくものであると言えるのかもしれない。

社会と自我との関係

これらの自我イメージは、他者、そして社会全体に対して自我をどう打ち立てるか、ということから生じていると言えるが、果たして自我は他者との関係性の中で存在が示されるものなのだろうか。つまり、アプリオリに社会があってその中で自我を育むのか、それとも自我の認識によって社会が形成されるのか、という卵が先か鶏が先かという議論が生じることになる。
自我の認識によって社会が形成されるのならば、自我は常に自我であり、何らかの自我イメージに当てはまるものではない。自我イメージは社会から観察した時に初めて現れるものであり、その点でアプリオリの社会が自我を観察してアメーバ、波、粒子などの自我イメージを見つけ出し、これは「智に働く」奴であるとか、「情に流される」タイプだ、とか「意地を通す」頑固者だとかカテゴライズするために典型的な自我イメージを作り出すのかもしれない。

複雑な自我の単純化

そうしてみると、そもそも自我をわかりやすい単純なモデルに当てはめるということ自体、複雑な自我を削ぎ落として、個々人の居心地を悪くするものだと言えそうだ。世には、「情に流されながら智に働く」浪花節タイプだとか、「意地を通しながら智に働く」是々非々タイプ、「情に流されながらも意地を通す」義士タイプなど、複雑な属性を持つ人々が多くいるだろう。その中で、ある一面だけを取り上げて自我を単純化するということは、先入観によって、その属性に応じた現象が発生しやすくなり、そして結果としてどんどんその属性に収斂してゆくということになりそう。つまり、アプリオリに社会が存在し、その社会が自我を観察すると、その観察に規定される形で自我が固定化されてゆくということが起こりやすくなることを意味する。

社会の観察による自由の統制

これは、社会による観察がいかにして人の自由を規制するかのメカニズムを指し示すものであり、ある意味で社会による観察の暴力性を表しているとも言える。つまり、社会による観察の結果生じる集団的認識が現象を作り出し、それによって対象の世界を著しく限定的にし、世界を狭く閉鎖的なものに矮小化してしまうのだ。自由の統制とは、権力によるものだけではなく、実は社会によっても広く行われており、そして権力による自由の統制も、その実行部隊は結局のところ多くは社会によるものであるとも言えそうだ。

封建制・バリューチェーン・民主主義

このような、社会自体が内包する自由統制的な性質は、一義的には封建的なクライアント/サーバー、御恩と奉公的な上下関係によって、上位者が下位者をその認識の中に組み込むことで下位者はその認識の範囲内において保護を得られるということになり、特に所領争いなどが激しい時にはその上位者の認識を得るために自由を犠牲にせざるを得ないということから生じるのだと言えそう。
現代においては、それがバリューチェーンによるものに変わりつつあると考えられ、バリューチェーンの認識網の中に入り込まないと金の流れにありつけないということから、その認識網が非常に強い力を持つようになり、そしてそれが厳しく自由統制的に作用しているのだと言えそう。
さらにそれが、民主主義の名の下で、例えば大企業の労働組合出身となると、その組合の人的ネットワークからバリューチェーンの有利なところにありつこうとする人々から大きな求心力を得ることになる。そのように、バリューチェーンが政治的なつながりに変質すると、選ばれた代議士はそのバリューチェーンを維持するために我田引水的な予算配分を求めることになり、利権的な予算配分が常態化することになる。そしてその予算解釈がバリューチェーンの中の相互認識をさらに硬直的にし、予算の意味づけを頭に叩き込むことで認識世界がどんどん狭くなり、固定化してゆくことになる。政府予算が人の認識世界を狭め、その自由度を低めることで、どんどん政府依存を強めるようにするメカニズムはこんな具合なのだろう。

時代遅れとなりつつある資本主義と民主主義

このように、20世紀にはある意味で理想像とされた資本主義と民主主義のミックスが、現在となっては自由統制的で、政府への依存心を強め、そして個々人の自我を矮小化・固定化する作用を持つようになっており、非常に前近代的な制度になりつつあるという理解は必要なのではないだろうか。制度は常に何らかの形で更新してゆかないと、時代の現実からはどんどんかけ離れていってしまうという時空的な意識が求められるのではないだろうか。

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