相互作用のモデル化

問題意識解決のための方法論としての相互作用

note投稿の後にXに投稿した時、発信者は意志の正確・迅速な伝達、受信者は気づきが生産的な情報であるという要約をした。これを用いて相互作用のモデル化をすると、まず、人は目的達成のために、その達成のために解決してゆかなければならない問題を、問題意識に従って順次解決してゆき、その解決のための方法論として他者との相互作用を手がかりとする、という事がありそう。既存の手持ちの方法論で解決できる問題ならば、特に引っかかることもなく、問題意識に含める必要もなく実装して行ける。それができないから問題意識を持ち、その解決を図る必要が出てくる。だから、その解決のために、相互作用を重ねて何らかの助け、そこまでいかなくとも手がかりを求めるということが、有効な方法論となる。だから、模式的には相互作用は双方の問題意識の現在地を確認し、その解決のために何らかの手がかりをお互い求めている、という状況であると整理できそう。

気づきで定義する相互作用の生産性

この時に、”生産的”な相互作用を定義するとすれば、発信者として、有効な気づきを得られるように、自らの意志、すなわち最終的な目的とそこに至る問題についての意識を正確・迅速に伝え、受信者はそれに対して自分の立場から何らかの気づきを提供できるような情報を返信する、という事になるか。

自分の立場、個として集団として

ここで、これまでに定義できていないこととして、自分の立場、というものがある。目的が将来像であるとすると、立場というのはこれまでの経歴や経験、あるいは教育、さらには遺伝といったものによって定まる今に至るまでの自分を構成しているさまざまな要素であると言える。産業化によって組織社会となっている現代では、この立場というのはほぼ現在自分が所属している組織であると言えてしまいそうだが、それでは組織内の多様性のようなものが全く反映されない事になる。組織ありきでそこに所属する個の立場が定まるのではなく、自らの確固とした立場を保持した個が集まって何かをする、という社会が、ポスト産業化の時代に構想されるべき関係性モデルではないだろうか。そうして、自分の立場というものをそれぞれが定義することができるようになって初めて上記モデルの相互作用が成り立つ事になる。もし立場が定義できないと、ヒントとなるような手がかりをもたらす角度の違った視点が生まれてこず、相互作用を行っても生産的な成果は上がりにくくなるかもしれない。多様性が重要だ、という意味はそんなところにあるのかもしれない。

オブジェクト指向で動く社会

さて、ここで機械と人との違いを考えてみたい。コンピューターは、命令言語によるオブジェクト指向のプログラミングによって、動作の決まったオブジェクトに対して命令を流す事で合理的な情報処理がなされるように最適化されていると言える。社会の中にコンピューター制御のものが増えるに従って、社会自体もこのような機械的な処理によって動くことが多くなり、結果として人もコンピューターの中のオブジェクトのように信号に対して合理的な反応を返すことで報酬が得られる、といった訓練付がなされ、社会全体がオブジェクト指向で動きやすくなっていると言えそう。しかしながら、命令言語である機械言語に対して、自然言語はさまざまな解釈の違いから相互の理解を深めてゆくという、全く対照的な性質を持っており、せっかくのその自然言語の豊かな表現力を消してしまって機械的な社会とするというのは、人の特性に反する社会制度となることで、かえって無駄を大きくするのではないだろうか。

原動力としての競争

そしてこの機械的な社会を動かす駆動力となるのが競争であるといえ、インセンティブに対して合理的反応を返すという事に対して競争を設定することで社会全体の”合理的”動作を確保していると言えるので、競争なくしては社会がうまく動かなくなっているのだと言えそう。

立場・価値観によって定まる基本的ルール

一方、この競争の基本的ルールを定めるのがView、すなわち上の例で言えば立場、あるいはそれが集合化した価値観と言えるかもしれないが、それによって競争政策を含めた社会の基本的ルールが定まっているのだと言えそう。そうなると社会を機械的なObject-Orientedな仕組みで動かすために、価値観を民主的という名の数の横暴であるView-Orientedの一般意志決定方式でルールを定める、という事になっているように観察できそう。
このViewが、それぞれ個別の立場ならば相互作用によって気づきが生じるというメカニズムが作用しそうだが、一般意志形成を通じて多数決でルールを社会全体に適用する、というようなやり方だと、相互作用の意味がなくなり、そしてそれは競争によってそのViewの所有権を定める、という、何とも逆立ちした不合理極まりない仕組みで社会が動いている事になる。
このようになる理由として、機械的なオブジェクト指向の仕組みありきで社会全体をそれに適合させようとしている、ということがあるのだろう。コンピューターやネットワークの仕組みは、人間の脳や社会のあり方をモデルに発展してきたはずなのに、ここにきて機械の方が先行し、それに人が合わせる、という状況になっているのだと言えそう。

Viewの個別化による多様性確保

そこで、相互作用の有効性を高めることを通じて、この機械先行のあり方を是正し、人間中心の社会のあり方に戻してゆく必要があるのではないだろうか。相互作用の有効性を高めるためには、View-Orientedが集合的な価値観を指向しているのに対して、このViewを個別化し、それぞれの立場を尊重するというあり方を探る必要がある。ここで、尊重というのが非常に難しく、特にデジタル的な社会では、それは従属かメタか、という極端な対応しかできないようになっているのだと言えそう。つまり、相手の言っていることが正しいと思えば神の如く祭り上げその勢いで進んでゆく事になるし、少し変だと思えば自分の価値観によってメタな立場から解釈を施し、それを保護する、というような事になってしまう。これは、目的合理性と立場の尊重という二つのことがうまく整合していないためではないかと思われる。目的に対して立場から問題意識が発生するというメカニズムにおいて、現状では、まず目的が公開されているというケースが少なく、目的と立場というものが入り組んでいたり、ときには意図的に混同したりして自分の立場を有利にしたり、立場を用いて目的所有権を確保したり、ということが行われているためだと思われる。従属は前者で、メタは後者の対応であると言える。

目的と立場の明確化による相互作用の有効化

これを避けるために、目的と立場を明確に公開し、その上で目的に至るための自分の立場からの問題意識を説明する、ということで、有効な相互作用が機能するようになるのではないだろうか。この基本設計ができれば、大目標、中間目標といった目的達成のための道標の設定や目的範囲内での複数の目標追求といったもう少し複雑な相互作用環境を整えることもできるようになりそう。現場は、駆け引きや競争のために、このような複雑な相互作用環境の設定は非常に難しく、全てが社会の側に包括されて、何故か自分がその中の部品になってしまうというよくわからない事になって、そうして皆やりたいことを小さく納めて社会の中で丸く生きていかざるを得なくなっているのではないだろうか。
人生はもっと有効に、有意義に使う必要があり、そして技術的にはそれも実現できるような状況にあるのではないかと考えられる。あとはそれぞれの人の思考回路をなるべく人生を自由に、そして有意義に、という事に変えて行けるか、という事にかかっているのではないだろうか。

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