フィギュアスケート隆盛の政治的背景

北京オリンピックが始まり、このところ日本のお家芸のようになっているフィギュアスケートにも、当然のことながら注目が集まっている。このフィギュアブームは92年アルベールヴィルオリンピックでの伊藤みどり選手によるトリプルアクセルの成功、銀メダル獲得が一つの起点となっているといえる。このフィギュアスケートブームというものを、国際的文脈の中でとらえてみたい。

今から20年前に開催されたアルベールヴィルオリンピックは、奇しくも冬と夏のオリンピックが同じ年に行われた最後の大会となり、東京と北京で続けて行われたアジアの年の21/22に対して、92年には半年後にはバルセロナで夏のオリンピックが行われたヨーロッパの年であった。そして、それを意識したかのように、アルベールヴィルオリンピック開幕前日の2月7日にヨーロッパ連合(EU)設立のためのマーストリヒト条約が署名された。それを主導したのが、ドイツのヘルムート・コール首相と、アルベールヴィルのあるフランスのフランソワ・ミッテラン大統領であった。

EEC、EC、そしてEUという流れは、今でこそ必然的に起こったように感じられるかもしれないが、歴史的に考えてスペインを抜きにしたヨーロッパ統合などというものはありえず、そのスペインがポルトガルと共にEC参加が認められたのは86年のことであった。そしてこの86年10月にアルベールヴィルとバルセロナでのオリンピック開催が決まっている。IOCの会長は、言うまでもなくスペインのサラマンチであった。スペインとポルトガルの加盟には申請から9年を要しており、それを考えれば、そこから通貨統合を含んだ組織の統一というのはかなりハードルが高かったといえる。しかし、ここからヨーロッパ統合の動きは急加速する。さっそく86年に統一議定書が提案されたが、それは最初に批准が問われたデンマークで否決された。しかしながら、当時はプラザ合意直後、日本の急速な経済力の拡大で、ヨーロッパの存在感は下がりつつあり、統一市場への期待から翌87年には統一議定書は発効した。またECとは別に人の流れを自由化しようというシェンゲン条約も85年に署名されたが、これはベネルクス3国とフランス、西ドイツの間だけで、他の国とは足並みがそろっていたわけではなく、そこから一気に様々な機関を統合してヨーロッパ連合とするというのはそれほど簡単なことではなかった。

そこで、89年の冷戦終結というのが大きな転換点となった。その年は、正月から昭和天皇が亡くなり、アメリカでブッシュ政権が誕生、サミット直前に日本でリクルート事件により竹下内閣が倒れ、宇野内閣が成立、そして天安門事件からサミット、そしてすぐに宇野内閣が倒れ海部内閣となり、11月にはベルリンの壁が崩壊する、というまさに激動の年であった。ベルリンの壁崩壊によって、ヨーロッパ最大の経済であった西ドイツは東ドイツを吸収することになり、その負担がどのくらいのものになるのか予測もつかなかった。そんな中で、ヨーロッパを統合市場とすることによってその負担を少しでも軽くしたいと考えたのだ。

一方、その89年にサミットの主催国だったのがフランスであった。前回のミッテランの記事ではあまり深く切り込めていなかったので、もう少し見てみたい。アルジュで開かれたそのサミットを、ミッテラン大統領はフランス革命200年の年として大きくぶち上げていた。ミッテランは、それをそのまま欧州統合への流れへとつなげる大きな絵を描いていたのではないか。そしてそのツールとして、左翼的な活動をグローバルに展開させることで、共産主義体制への左翼サイドの支持を失わせ、冷戦を崩壊に結び付けようとしていたのかもしれない。それは80年代半ばくらいからの債務削減運動で一つの大きなトレンドとなっていたといえるが、そんなこともあって、このサミットでも債務削減のアピールがなされるということもあった。共産主義拡散の具体的な動きはアジアで先行して起こっており、フィリピンではマルコスの独裁に対して86年に革命が起こり、アキノ政権が誕生していた。そのころ起こった三井物産マニラ支店長誘拐事件には日本の赤軍が関与していたともいわれ、以後フィリピンでは共産系のゲリラの動きが活発化する。

それはともかくとして、いずれにしても89年を大きな転換点として、歴史は大きく“グローバル民主主義”的な方向に舵を切っていた。そしてミッテランは、そのグローバル民主主義のための壮大な実験として欧州連合というのを動かしてゆこうとしていたのだと言えそうだ。92年のマーストリヒト条約に至る過程はあまり公になっているとはいいがたいが、91年には湾岸戦争があり、アメリカ一国主義への不安が高まる中で、細かな議論をするというよりも、勢いで条約への道筋をつけ、それをオリンピックの前日に署名するという、最大限の政治的効果を狙ったことは想像に難くない。

一方で日本であるが、名古屋オリンピックについてと海部俊樹首相就任時のことについては別に書いた。オリンピックについては、名古屋は負けたが、その交換ともいえるような形で10年後91年6月に98年長野冬季オリンピックの開催が決まっている。ここで一つだけ名古屋オリンピックにからんで補足すると、誘致反対が2割強いたとされ、地元新聞である『中日新聞』ももろ手を挙げての賛成ではなかったとされる。特に名古屋市中心部での反対が強かったようで、名古屋出身ではない知事の下で県主導による誘致というのが名古屋市民には受け入れがたかったのかもしれない。そういうことがあって、長野オリンピックが決まったことに対する名古屋への政治的謝礼というものがアルベールヴィルオリンピックでは存在したといえるかもしれない。その政治に関していえば、愛知県選出の総理である海部俊樹が、91年に湾岸戦争への支援、掃海艇の派遣というようなことを決め、6月に長野オリンピックが決まり、8月にソ連共産党解党、9月に韓国と北朝鮮が国連同時加盟、11月5日に海部内閣総辞職、12月にソ連崩壊ということになって、年が明けての2月にマーストリヒト条約署名でその直後にオリンピック開幕ということになる。国際的文脈ではその政治的謝礼というのがかなり大きく膨らんでいたことがわかる。

海部内閣の後に総理となった宮澤喜一であるが、冷戦終結を2,300年に一度の出来事だと評したという。それは明らかにミッテランのフランス革命200年の言葉を意識したものであるといえる。では、1992年の200年前にいったい何があったかといえば、1792年ロシアからラクスマンがやってきた年だとされる。このこと自体非常に様々な背景を持っており、簡単にまとめられるものではないが、その中で一つ、彼は漂流してカムチャツカについた大黒屋光太夫を連れて日本に来たとされるが、その大黒屋光太夫、フランス人のレセップスという人物とオホーツクであっているという。そのレセップス、西回りでシベリアに着き、オホーツクから陸路で大陸横断してパリに帰ったのだという。その日程、あまりに超人的であり、とてもではないが信用できない。ここで細かくは議論できないが、それは実は、そこまで無理な主張をしないと、当時ロシアがシベリア迄進出していたことの証拠があまりに乏しいので、現在進行で歴史の上書き作業をフランスが主導して行っているのではないかと疑われる。なお、ラクスマン来航の時の老中首座であった松平定信は紀州から久松松平家に養子に入ったが、その久松松平の分家出身者に元NHKアナウンサーの松平定知がおり、そのいとことしてアルベールヴィルそして長野オリンピックで総合司会を務めたフランス語の達人だという磯村尚徳がいる。

幕末の日仏関係についてもいくつか書いてきたが、その中でフランスの行動は思った以上に怪しいと個人的には感じている。特に、絹織物の話で、フランスの蚕が病気で全滅したので日本から蚕を導入し、それと交換のような形で日本に絹織物の技術を教えたのだ、というような話がなされているが、日本ではフランスとは比較にならないはるかに古代から絹織物の生産をしている。機械の導入はともかくとして、技術面でフランスから教わるようなものがあったとは到底思えない。実際、昭和に入って日本の絹織物は世界中を席捲するわけで、それは圧倒的な生産性と質の良さに支えられていたことは疑いがないだろう。そしてその日本の一人勝ちが第二次世界大戦につながったとさえいえるのではないかと思われる。それをフランスからの技術であると書き換えている以上、他にも何かやっていると考えても不思議ではない。前にも書いたとおり、IOCのサラマンチはフランコ派で、フランコは満州国を承認していた。ロシアのシベリア進出の時期というのは、満州国の位置づけについて非常に大きな意味を持つ。それは第二次世界大戦どころか、日露戦争以来の北東アジアの地図というものが大きく変わる可能性がある話である。そして、このようなアジアにおけるボーナスがあったがためにヨーロッパ統合のかなり無理な動きも何とか進んでいったのではないか。つまり、ヨーロッパにおいて統合を進めるためには、ドイツの悪者化を防ぐ必要があり、そのために日本を悪者にすることで欧州統合への摩擦を和らげたのではないか、ということだ。そしてそれは、戦時中の立場が微妙であったスペインを引き入れるためにも必要なことだったと言えそう。

その名古屋出身の伊藤みどりであるが、その伊藤という姓にかかわる部分を見てみたい。というのは、丁度この時期、伊藤という姓が名古屋を中心として大きな社会的なトピックになっていたからだ。90年にイトマン事件というものが起きた。イトマンは老舗の繊維商社であるが、同じ伊藤のつく今では大手商社である伊藤忠商事が戦前には合併や統合を繰り返して業務実態が明らかではないのに対して、はるかに繊維商社としての実態を持っていた会社であった。戦後、伊藤忠は安宅産業という名門商社を経営危機に乗じて乗っ取り解体することによって急速に発展した。その合併を仲介したのが住友銀行であったが、今度はその住友銀行がイトマンに名古屋の伊藤寿永光という人物を紹介し、そこからイトマンが食い物にされ、破綻に至った、実は、安宅産業の破綻も、大きな発火元のいくつかは名古屋周辺の会社であった。それはともかく、住友財閥の住友家というのは、戦後は公職からは身を引いているとはいえ、最後の当主友成の父親で15代当主の友純は西園寺公望の弟となる。西園寺公望は維新後に10年近くにわたってフランス留学をしており、フランスと日本とのつながりの中心的人物であったといってよい。その住友財閥の中心的存在である住友銀行が伊藤という姓に絡んで様々なことを展開させていたことがわかる。個人的には姓のような自分の意思ではどうにもならないものに縛られる世の中というのはたいへん息苦しいと思うのだが、ここまであからさまに姓とビジネスとをあまりよくない方法で結び付けて様々なことを展開されたら一言いいたくなってしまう。財閥系でそういういやらしいやり方をつい30年前に大々的にやっていたところがある、ということは記しておきたい。そしてその伊藤という姓は、新しくはロッキード事件の時の丸紅の伊藤宏専務、古くは初代内閣総理大臣で国連加盟が決まったばかりの朝鮮の初代総監でもある伊藤博文と、これまた国際的に政治的資産が積みあがっている状態であった。そんな中での伊藤みどりの女子フィギュア史上初のトリプルアクセル成功と銀メダル獲得、ということになるのだ。そしてそのパワーは欧州統合の流れと共にその後のフィギュア界に脈々と受け継がれることになっているのだといえる。

いずれにしても、200年にわたるヨーロッパとの関係性の歴史を売り払って得たものがフィギュアの栄光だけ、というのはあまりに惨めな外交的敗北であると言わざるを得ない。まだ完全に固まっているわけではないので、フィギュアでの日本勢の活躍を見るたびに、いかにして失われたものを取り戻すか、ということを、まさにフランスによる干渉の始まりであった三国干渉に対する臥薪嘗胆の気持ちで考えてゆかないといけないのだろう。

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