社会的分業の形成

社会的分業の成立

分業がいかに成立するかについて、スミスの原始社会から連綿と続く社会的分業の系譜では、例えば狩猟や農耕、その道具作り、捌き方など社会的価値観から生ずる問題意識があり、その解決のために仕事の分配がなされるという形が主たるものであったと思われる。それは、人的資源が有限の状態ではうまく機能していたのかもしれないが、貯蓄が発生するような状態、つまり社会的余剰が生まれるような状態となってからは必要とされる仕事は限定的となり、皆が分業にありつけるような状態ではなくなったのだと言える。そこで、経済学的に自然失業と呼ばれる状態が定常化することになる。

怠惰さから逃れるための分業

これは、社会全体が共通して認知する問題意識から生み出される仕事というのが飽和状態となり、仕事を生み出すために問題、いわば共通の敵を作り出す必要が出てくるようになったことを意味するのだと言える。そこで勤勉さを称揚するプロテスタンティズムが主導したともされる資本主義によって、怠惰が罪であるという問題意識が共有されるようになったことで、社会的に怠惰であるとみなされることが問題となるということで、近代人はいわば相互に煽りあって怠惰であるという評価を避けるために必死に競争し、分業にありついて怠惰ではないという評価を得ようとする、という状態になっているのだと言える。

ケイパビリティに基づく分業

このような、いわば近代病から抜け出すために、それぞれが自分の持つ問題意識と向き合ってそれを解決してゆく、そして解決できない時にその資源を市場に求め、その調達を行う、という、社会的価値観に基づく分業ではなく、市場によるケイパビリティ交換による分業に移ってゆく必要があるのだろう。

メディアと政治による一神教的分業システム

それを行うためには、現代の日本で考えれば、メディアが問題を掘り起こし、それを政治が拾い上げ、政策、予算措置によって解決するという戦後民主主義的な手法が限界に突き当たっているのだ、という認識から出発する必要があるのかもしれない。今となっては、メディアは問題を掘り起こすわけではなく、問題を作り出す、つまり、科学の分析で言えば、観察から導き出される一般的現象というよりも、自らの問題意識を論理で補強してこれが問題である、と決めつけることで、その論理を政策に押し込み、全国あまねくその政策を実現させるという、論理先行の政策反映過程をとっており、そしてその論理の正しさを証明するために、平行論理を対立的文脈の中に組み入れて文脈内外の競争をさせることで両者からいいとこ取りだけをし、下々のものには成果主義で椅子取りゲームの競争をさせるという、競争主導で論理を補強する超論理競争社会を作り出しているのだと言える。その論理の出発点は、単なる主観的観察に過ぎないのにも関わらず、それをメディアという大組織の力を用いて一般化し、それを押し付けようという、いわば普遍的価値観創造機、言い方を変えれば、一神教的神になろうとするシステムを作り出しているのだとも言える。

代表制民主主義が補強する社会的分業システム

それを権力によって具現化するのが代表制民主主義であり、民意を聞くという錦の御旗の下、個別問題意識をいわば搾取し、それを解決してやると言って恩を売りつけ、個々人の自立性を失わせて権力に従属させるのがこの制度に基づく政治であると言える。そしてその問題意識を一般化した上で、競争で問題意識の所有権を争わせ、その中でその問題意識へのアプローチの椅子取りゲームを行わせるという、椅子ありきの分業システムが出来上がる。一般的価値体系に基づく社会的分業とは、降りてきた問題意識の所有権争いをするよう仕向けることで、それぞれが自ら問題意識への感覚を磨くことを阻害する。

対立文脈に基づく社会的分業の帰結

これは、上に書いた対立的文脈の中で、問題意識というよりも、ライバルとの相対的違いによってマッチアップの構図を作られ、その対決という形を取るようになるので、問題意識についての議論よりも、相手をどうやって倒すかの戦略的問題となり、そのために文脈の違いによる文脈の論理的力比べ、つまり弱みを見せると論理的にどんどん突っ込まれ、相手の揚げ足取りに注力するような、何の生産性もない破壊的競争、対立が行われることになる。このような非生産的どころか消耗的な競争には全く意味はない。競争をするにしても、個別の長所が生き、それが伸びるような仕組みでないと、競争のメリットは全く生じないどころか、ゲーム理論的ゼロサムゲームで全体的な利益すらも失われてゆく。

自らの問題意識に基づいた行動

これを避けるためには、問題意識の競合、争奪という仕組みをなくす必要がある。問題意識は個別に持つものであり、それを上から押し付け、お前の問題意識はこれだ、などと言われても、関係ないものは関係ないし、興味のないものは興味がない。人は、自由意志によって自分の好きな問題意識に基づき、好きなことをやり、そして自由に好悪を表現し、やりたくないことをやりたくないと言って拒否する権利を持っている。

相互補完による分業形成

社会的分業は、それぞれが自分のやりたいこと、そしてその実現スキル、すなわちケイパビリティを磨き、その足らざるところの相互補完関係を他者と個別に形成することで自然発生的に起こるものであり、組織、そしてその椅子ありきでアプリオリの分業体制の中で椅子取りゲームをすることなどでは決してない。それぞれがそれぞれの長所、問題意識、それへのアプローチそして展望を持って独自に誇りを持って生きることで、自然に出来上がるのが意味のある社会的分業であろう。

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