人と情報

情報というものの有用性を高めるために、その仕組をもう少し詳しく検討する必要があるのではないだろうか。情報というのは非常に抽象的な言葉で、便利な反面、とても扱いにくい言葉でもある。情報というだけで、とても幅広い範囲に想像が及び、議論自体が大雑把で散乱したものになってしまいがちだからだ。そこで、ここでは特に情報の受信プロセスについて考えてみたい。

自然状態で、情報というものが存在するのか、というのは非常に難しい問題で、存在がどの時点で情報となるのか、というある意味哲学的な議論となる。私は、それはやはり受け手によって認識された時点からではないか、と考えている。認識ー解釈ー加工ー発信というサイクルがあり、そして発信がなされて受け手が認識した時に情報が成立するのではないだろうか。

現在は、ビッグデータを集めること、つまりセンサーによって認識の定量化を進め、それを収集する、というところに重点が置かれているように見える。そして、AIは解釈の定型化を行おうという取り組みだといえる。認識と解釈の定型化が行われると、後の加工、発信のプロセスのとりうる範囲は極めて限定的になる。加工についても、新聞の社説の自動作成がかなりそれらしくなっていることからも、定型化した仕事は簡単に取って替わられてしまうのだろう。発信もまた、SNSなどの使い方もAIの方が”効果的”に行うことができるのだろう。そうなる時に、人は一体何ができるのか。

ここで、情報とは認識から始まる、というところに立ち戻るべきなのだろう。認識は、最初に自動化されたので、もはや人の出る幕ではないと感じるかもしれないが、感受性というのはどこまでも豊かで複雑で単純化できず、機械が万人の感受性を再現することなどまずできない。それこそまさに人が最も人らしくある根源だといえるのではないだろうか。だから、みんなの認識がなんであれ、自分がどう感じたか、というのを最も大事にし、それをなぜそのように感じたのか自分なりに整理し、それを人にわかってもらえるように加工し、そして実際に表現するということを繰り返すことが、人の持つ最大、そして最強のスキルであるといえるのではないだろうか。

それが他の人と共有できれば嬉しいし、違いがあればそれはまた話が盛り上がる。そしてそれによって自分というものがどんどん確かなものになる。自分が確かになれば、AIが何を言い、何をしようと、そこからは超然としていることができる。そうなれば、AIは常に単なる道具でしかなくなり、便利なところだけ、自分の使いやすいように使えばよくなる。それは、情報に振り回されるという煩わしさからも解放されることを意味し、いらない情報は認識しないで済むようになるだろう。

スキルとしては、感受性、解析力、発想力、表現力というものがそれぞれ認識ー解釈ー加工ー発信の各フェーズに当てはまりそう。感受性は、すでに書いた通り、自分がいかに感じるか、周りの環境に神経を巡らせ、集中的に、あるいは総合的にどう感じるかを掬い上げる能力、解析力はその感じ方を論理的に整理してみる能力、発想力はその自分の整理をいかに他者に伝えられるかを考える能力、そして表現力はそのままさまざまな表現手段を用いてそれを実際に他者に伝えるために表現する能力、ということになるだろう。解析力に関してはAIの入ってくる余地はあるだろうが、その他は現状まだまだだと言えそう。もっとも、人間の能力もそれを総合的に持っている人などは極めて稀であり、それはまた、人間の可能性がまだまだ無限大に近いほど広がっていることを意味する。

人との競争でそれらのスキルを高められれば良いのだが、競争して削り合うような無駄なことをしているほどには人生は長くないのだと感じる。いかにさまざまなことを聞いて見て感じてまたそれを人に伝えて共感したり対話したりするか、限りある人生、有意義に過ごしたいものだ。

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