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記憶の狭間を埋める旅(13)

三国協商

イギリスの外交政策が「栄光ある孤立」から三国協商へと進む過程を見てゆきたい。前回も見たように、第三次ソールズベリー内閣で近代的帝国主義へと大きく舵を切ったイギリスだったが、それが全国民の総意であったかと言えば、そうではないから、それほど名を知られているとは言えないランズダウン卿によるバランスの取れた外交がきらりと光ることになったのではないだろうか。ここでは、その後さらにフランスとロシアとの協商関係に入ってゆくイギリスについて引き続き見てゆきたい。

イギリス、フランス、ロシアのいわゆる三国協商は、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアの三国同盟 (1882年)とよく比較されるが、歴史学者たちはこの比較には注意を促している。「協商」というものは、三国同盟や露仏同盟とは異なり、相互防衛を義務付けるものではないので、イギリスは1914年の時点で、自らの外交政策を自由に決められる余地があった。イギリス外交部の外交官エア・クロウが書き留めたように「基本的な事実は言うまでもなく『協商』とは同盟ではないということだ。究極の非常事態にあっては、協商というものは何の実質的な中身も持たないということはありうる。『協商』というものは、二国間の政府で共有した考え方の枠組み、一般政策の見方を示したものであって、それ以上のものではないが、その全ての内容が意味を失うほど曖昧になることはありうるし、実際に曖昧になってしまうこともある。」

Wikipedia | 第一次世界大戦の原因

日英同盟は別として、仏露との協商は軍事には関わらないもので、その日英同盟にしてものちに見るように多国間での紛争になった時の攻守同盟であり、遠隔地であることを考えれば、それが発動することは、締結当時には考えづらく、いわばアジアの番犬としてアジアで特に植民地に絡んだ多国間紛争が起きた時に介入できるように伏線を張ったものだとも言える。それらは、いずれにしてもヨーロッパの勢力均衡を保つためのものだといえ、第三次ソールズベリー内閣時代に帝国主義に走った反動だとも言える。ただ、最終的には、それがドイツを追い込むことになり、第一次世界大戦に繋がらざるを得なくなったという評価があるのは皮肉なことだと言える。そのあたりの評価も含めて見てゆきたい。

露仏同盟

外交的に孤立したロシアは同じく孤立していたフランスに接近し、翌年の1891年から1894年にかけて交渉を行い、1891年に政治協定を、次いで1894年に軍事協定を成立させた(露仏同盟)。

Wikipedia | 第一次世界大戦の原因

露仏同盟(ろふつどうめい、ロシア語: Франко-русский союз、フランス語: Alliance franco-russe)は、第三共和政期のフランスとロシア帝国の間で成立した軍事同盟。経済的対立をふくむ欧州情勢の混迷を背景として、両国の交渉はビスマルク辞職後の1890年にドイツ側が独露再保障条約の更新を拒絶し、1891年から公然化した。公式の同盟は1894年1月4日に締結され、そこで三国同盟を仮想敵とする集団的自衛権が定められた。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は世界政策を掲げ、艦隊法の制定以降イギリスとの建艦競争に突入した上、いわゆる3B政策を企図してロシアとの関係も悪化させた。露仏同盟は三国協商の土台となり、日英同盟と結びつき対独包囲網を形成した。
露仏同盟は露清銀行を代表とする外資の呼び水となった。1891年より建設に着手するシベリア鉄道等、ロシア企業へ巨額の外資、特にベルギー資本が流入した。債権を除いた国別外国投資をフランス・イギリス・ドイツ・ベルギーの順に100万ルーブル単位で記す。1890年は61.4、29.8、68.8、17.1であった。それが1900年に210.1、102.8、197.4、220.1となった。この1900年、ロシアの銀行の総資本に占める外資の割合は28.3%に達していた。それから第一次世界大戦勃発まで、フランスからの国別対外投資額はロシアが断然首位であって、2-4位のスペイン・オーストリア・オスマン帝国への3カ国投資額合計が1902年でロシアを少し越えていたのが、1914年わずかに届かなくなった。1890年から1912年の統計によると、フランスは好況下のロシアには民間投資をし、不況下のロシアには一層の巨額を公債に投じた。不断に投下された資本はロシア革命で回収が問題となってシベリア出兵に発展した。

Wikipedia | 露仏同盟

すでに見たように、94年にはロシアはドイツとの間でも通商条約を結んでおり、全体的に緊張が緩和していた時期だった。しかしながら、その年にカプリヴィが辞任し、そしてイギリスでは翌年に第三次ソールズベリー内閣が誕生して帝国主義路線に舵を切り、状況は一気に緊迫化していった。90年代後半のこの緊張状態がなければ第一次世界大戦に至ることはなかったかもしれない。

日英同盟

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