三国協商
イギリスの外交政策が「栄光ある孤立」から三国協商へと進む過程を見てゆきたい。前回も見たように、第三次ソールズベリー内閣で近代的帝国主義へと大きく舵を切ったイギリスだったが、それが全国民の総意であったかと言えば、そうではないから、それほど名を知られているとは言えないランズダウン卿によるバランスの取れた外交がきらりと光ることになったのではないだろうか。ここでは、その後さらにフランスとロシアとの協商関係に入ってゆくイギリスについて引き続き見てゆきたい。
日英同盟は別として、仏露との協商は軍事には関わらないもので、その日英同盟にしてものちに見るように多国間での紛争になった時の攻守同盟であり、遠隔地であることを考えれば、それが発動することは、締結当時には考えづらく、いわばアジアの番犬としてアジアで特に植民地に絡んだ多国間紛争が起きた時に介入できるように伏線を張ったものだとも言える。それらは、いずれにしてもヨーロッパの勢力均衡を保つためのものだといえ、第三次ソールズベリー内閣時代に帝国主義に走った反動だとも言える。ただ、最終的には、それがドイツを追い込むことになり、第一次世界大戦に繋がらざるを得なくなったという評価があるのは皮肉なことだと言える。そのあたりの評価も含めて見てゆきたい。
露仏同盟
すでに見たように、94年にはロシアはドイツとの間でも通商条約を結んでおり、全体的に緊張が緩和していた時期だった。しかしながら、その年にカプリヴィが辞任し、そしてイギリスでは翌年に第三次ソールズベリー内閣が誕生して帝国主義路線に舵を切り、状況は一気に緊迫化していった。90年代後半のこの緊張状態がなければ第一次世界大戦に至ることはなかったかもしれない。
日英同盟