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市場の3類型

社会的統制の強さに応じて、市場イメージには三つの類型があるのかもしれない。ニーチェ型自我運命市場、フォロー&リリースわらしべ長者市場、自己追求・自己実現スミス式分業市場とでもいうべきか。

ニーチェ型自我運命市場

ニーチェ型自我運命市場は、人のものであろうがお構いなく、強い意志によって自分の目的であると固く信じて進み、運命的に目的を入手するというもの。それは競合が発生する可能性が高く、それに勝ち抜くことによって目的に到達するという、力による市場支配のイメージで、新自由主義的な市場イメージだと言えそう。

フォロー&リリースわらしべ長者市場

フォロー&リリースわらしべ長者市場は、先人がいて、その後をキッチリなぞり、その中でいるものといらないものを分けていらないものを交換しながら自分のいるものを集めてゆく、という市場イメージ。これについては、ついてゆきたいという人気の先人には多くのフォロワーが集まるので、そこで競争が発生し、椅子取りゲーム的なものになる。同じ先人を追いかけていると交換したいものも限られてくるので、市場が発生しにくくなり、ただ一番そばでついてゆくことの競争になりがちであると言えそう。これは組織内市場のイメージか。

自己追求・自己実現スミス式分業市場

自己追求・自己実現スミス式分業市場は、自分の好きなことをひたすらに極め、それを評価し合える人同士でスキルの交換、分業を行う、というイメージで、アダム・スミスが描いた分業とは、このような形で成立していたのではないかと想像する。

スミスの市場観

これらの市場は、現象論の発生と進化によって、次第に三つ目のものから二つ目、一つ目に変わってきているのではないかと感じる。スミスは、スコットランド国教会に属しており、教会権威に反対するプロテスタントというよりも、カトリック教会からの一定の距離を保った独立を目指すというイメージで、その中で自立した個による自発的分業の感覚が育まれたのだと考えられる。それは、ヘーゲルによる現象論の発生以前であり、特にケルト系はもとよりそういった感覚を精霊の存在によって認識しており、キリスト教導入後は守護聖人的なものが、個別にそういう不可思議な現象を説明するために用いられていたのではないかと考えられる。現象とは何か、というときに、精霊の悪戯、とか守護聖人が守ってくれた、という非常に素朴な宗教感が、健全な個の個性の相互承認というあり方をもたらしたのではないかと考えられる。

プロテスタント的市場観

その後、19世紀になると、ヘーゲルが精神現象学を提示する。これは、主観的意識から現象の背後にある絶対精神を把握するものとされ、要するに、個別の感覚ではなく、絶対的観念が一般的現象をもたらす、と考えたのだと言えそう。ヘーゲルはルター派プロテスタントであり、プロテスタントとはカトリック教会の解釈独占に反対して自らの聖書解釈を拠り所にするということで、聖書に書かれていないことは受容しきれないことになった。つまり、個別の感覚は、聖書の記述に合うように一般化され、精霊やら守護聖人の出る幕がなくなってしまったのだ。これによって不可思議な現象を「科学的」に分析する必要が出てきて、それによってドイツ民族の観念のようなものが現象をもたらすのだ、という結論に至ったのではないだろうか。それはともかく、そのような集団的思考が、守護聖人を共有していたともされるギルドのような職能集団において強く反映され、二つ目のフォロー&リリースわらしべ長者市場、というよりももっとかっちりとした組織ではあろうが、そういったものの形成を促したと言えそう。ドイツでは職能集団は政治参加を強く求めたとされ、市場よりもむしろ政治による分配を志向したのだとも言えそう。

「超人」的市場観

ドイツではニーチェがこのヘーゲルの歴史的観念論、民族観念のようなものを否定し、個別の人にとっての歴史の意義に注目した。ニーチェはその上で「神は死んだ」として神の存在を否定し、「ルサンチマン」の超越を行う「力への意志」をもった「超人」の存在を規定した。これは、「ルサンチマン」の原因としての仏教的?因果のようなものすらも力でねじ伏せることを意味し、それは他者に「ルサンチマン」を押し付けてでも自らが「超人」となって前に進んでゆくことを肯定したのだと言える。これは、既得権益的な集団的観念を力でねじ伏せる新自由主義的な考えにつながるものだと言え、市場とは、力でねじ伏せた上に現れるものだ、という、構造改革を通した新古典派的な完全競争均衡の市場の実現を目指すものだと言えそう。現象論的には、フッサールは超越論的現象論で、全てのものを「エポケー」して純粋志向性に基づいて純粋現象を得ることを主張した。さらにフッサールは感覚的直感を超えた本質的直感を主張し、後期には「先所与性」も主張しており、現象論的には直感は普遍的でかつ現象は歴史的ということになり、そこには個の居場所はない。個の存在は「生活世界」にあるというが、「生活空間」は結果であり、そこに至る道のりは示されていない。つまり、普遍的かつ歴史的な世界において、「志向性」を貫いて目的の「生活空間」に至るには、論理的にはニーチェ的「超人」になるしかないのではないかと考えられる。つまり、ライバルを力でねじ伏せて目的の「生活空間」を確保しないと純粋現象は得られない、ということになる。このあたり、論理的に議論しだすとどこまでも逸脱してしまうので、ここまでとしておくが、とにかくそれは、ニーチェ型自我運命市場を強くサポートするものなのだろう。

市場観の推移から見る「新しい資本主義」

このような市場の3類型の歴史を見てみると、最初は活気ある交換を保証するはずであった市場が、どんどん閉鎖的になり、堅苦しくなり、そしてついには戦いの場に至ってきた様子がよくわかる。そして、果たしてニーチェ型自我運命市場が資源の最適配分を保証するものなのかは、何を最適と定義するかにもよるのだろうが、かなり疑念があると言わざるを得ない。
折しも「新しい資本主義」が議論の俎上に上がっているが、資本主義の基本インフラとしての市場のあり方というのも議論されて然るべきなのではないかと感じる。

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