社会的生産学の必要性

経済学が限界を迎えているのではないか、ということは縷々書いてきたが、ではそれを一体どのように再定義したら良いだろうか。

現代の経済学の問題点

いくつかの問題がある。一つには、当然の如く経済学が直面している最大の問題である利益を目標として設定した学問の有効性ということがある。ついで、貨幣価値で計測する計量制というのが社会の構成をどの程度反映しているものなのかという問題もある。また、近代経済学以降経済学の当然の前提のようになっている経済的功利主義の無条件適用の是非は問われるべきであろう。さらに深いところを見ると、ずっと議論してきた価値論の部分で、労働価値説なのか、効用を中心に考えた功利主義を採用すべきなのか、という問題に行き着く。

問題の根本原因追及のために

このように、さまざまな問題を抱えた経済学だが、一体どこからどのように手をつけていったら、少なくとも実際の社会に害を及ぼさないような形にして行けるのだろうか。上の経路に従えば、価値論の再検討、経済的功利主義の是非、貨幣による計量化の当否、利益至上主義の有効性ということになる。それはそれで、それぞれの段階で有意義な検討成果が出そうであるが、それはそうとして、一体経済学はなんのためにあるのか、という部分の検討がなされなければ、何がどこでどうずれてこのような状態になってしまったのかを突き止めることができない。

古典派からケインズへ

そもそも経済学は、少なくとも古典派の時代までは、国家経済の動きを検討し、国家財政の安定を図るために発展してきたと言って良いのだろう。しかしながら、新古典派のあたりから、金本位制が主流となるにつれ、世界中で通貨価値の単一基準での計量が可能になった一方、自由主義の潮流がおこったこともあり、労働価値というものの意義が失われ、貨幣で計量し、そして個人が効用を極大化するというように、個人主義の視点が入るようになったのだと言える。それを再び国家経済の方向に大きく振り戻したのがケインズであった。ケインズは需要に焦点を当てて有効需要を増すことで国民所得を増やすとした。これは、労働価値とも効用極大化とも異なった、貨幣によって顕在化した需要というものを計量の材料としたものであり、これによって経済学の目的が国民所得の極大化ということになっていった。これは経済学が個人に属する労働や効用から離れて、まさに社会科学として確立した瞬間だと言っても良いのだろう。

数学的精緻化の結果

新古典派となると、この計量化された国家経済の数学的分析がどんどん精緻化されていったが、基本的には財政であれ金融であれ、とにかく総需要を増やせば国民所得は上がるのだ、というステロタイプ化した見方をどんどん強化していっただけで、その精緻化に従って経済学はどんどん個人から離れ、国民所得を増すための道具として洗練されていった。しかしながら、理論が精緻化されるにつれ、結局総需要は投入量を増せば増えるのだという単純な数学的結論に至り、そうなると今度は比率に目が向くようになって生産性に注目が集まるようになっていると言える。
つまり、経済学は紆余曲折の結果、生産性向上の要因分析のための学問に至っていると言える。これは、労働価値説から始まった経済学からすると、一周回って分業による生産性向上に目をつけたアダム・スミスのところに戻った状態だとも言えそうだ。

生産はどこから現れるのか

さて、生産性に目を向けた時、果たして生産とはどこから現れるものなのかが問われるようになっていると言える。総需要管理の時代には、政府が需要管理を行い、それに従って生産をすればよかったし、民間も政府の計画に合わせて生産計画を立ててゆけば大きく外れることもなかったのだと言えそう。マーケティングの進化、社会科学や心理学の進歩によって、効用のサプライサイドからの管理、果ては公的部門へのナッジ導入などによって政府による管理すらも視野に入ってきており、生産主導での市場形成の流れは揺らぎそうもないが、果たしてサプライサイドは消費者の効用を満足させられる商品を生み出し続けられるのだろうか。

デマンドサイドへの価値シフト

ここでマス消費に飽きを感じる消費者サイドの動向が鍵となりそう。独自の消費行動に価値を見出した消費者は、既存のサプライサイドからのお仕着せの消費を是とするだろうか。これは、局面としては、価値の源泉がサプライサイドからデマンドサイドへ切り替わりつつある状態なのかもしれない。つまり、生産力過剰状態となり、言わばなんでも作れる状態となっているときに、作るものは売れるものでなければならず、すなわち需要がなければ作るコストをカバーできないようになり、そうなると需要を持つデマンドサイドが価値の源泉となるのではないか、ということだ。

消費者への貨幣直接注入

この局面では、生産力に焦点を当てたGDPなどの指標にこだわり続けるのならば、デマンドサイドにどんどん需要を生み出させる必要が出てくる。つまり、消費者への貨幣の直接注入が効果的な政策であることを意味する。

新たな生産要素定義

一方で、生産要素として、大量生産仕様の土地・資本・労働という三要素を取り上げること自体も無意味化してきそうだ。個別の需要を引き出すための生産要素として、資本主義を前提とするのならば、依然として金融は重要な要素であり、ついで需要と密接に結びついた情報、さらにはその情報が伝わるための人的資本網というものが新たな生産要素となってきそう。

多様な価値観を重視した経済

これは、生産というものが作るということに特化した大量生産モードから、需要段階からの消費者との関わりを重視したより社会性の高いものに変わってゆくことを意味する。大量生産モードは、価値観がまとまった、言わば一神教的な考えと相性が良かったと言えるが、個別の消費者の価値観を重視するこの社会的生産では、より多神教的な、さまざまな価値観に対応できるような生産体制が必要となり、そのためにも情報と、その多様なソースを確保する人的資本網というものが重要になってくる。

再び生産とは何か

ここで、改めて生産とはなんなのか、ということが問われることになる。会計的には、売上から原価を引くことで利益が計上されるので、原価を抑えて高く売る、ということが重要となり、そこで生産現場ではコストを抑えて生産する、ということがテーマになってきたと言える。しかし、果たして生産とはコストを抑えて作ることを意味するのだ、と定義して良いものだろうか。生産とは、より創造的なもので、むしろ価値を生み出すことが生産である、という方がはるかに本義に近いように感じる。そうなると、原価を抑えることよりも、むしろ売上を増やすことの方が重要になってくるのではないだろうか。かといって、消費者の志向がマス消費から個別化しているとしたら、売上数量を増やすということはあまり現実的ではなくなり、価格を上げるということにならざるを得なくなる。それができるようにするために家計への貨幣流入を増やさないといけないのだろうが、現状はそうはなっていないので、高所得者向けのビジネスに焦点が当たっているのだと言えそうだ。

サプライサイドの金融政策

そこで、サプライサイドが独自にできる金融政策として、消費者サイドで新たな需要を生み出しそうな活動に一年程度の足の長い手形を発行し支払いを留保した金融を先行させて信用拡張を図り、需要を顕在化させるということが考えられそうだ。サプライサイドに資金が滞留しているというのは、経済的には非常に無駄が大きく、それはなるべくデマンドサイドに回して貨幣の回転を上げた方が経済は活性化する。投資に回したところで、需要がなければ作っても売れないことになる。それならばもっと積極的に市場に信用を注入することに使った方が、資産効率も実は良い、ということになるかもしれない。

相互理解としての生産

情報に関して言えば、これが社会的生産の鍵となるのではないかという気がしており、つまり、生産とは相互理解のことではないか、という感覚をうけている。市場とは需要と供給とのマッチングであり、マッチングとは合意、すなわちお互いの条件が折り合うということを意味する。それは、意思の疎通ができ、相互理解が成り立ったということであり、だから、相互理解が多く成り立つことが市場の活性化、ひいては生産活動の大元になるのではないかと考えるのだ。だから、相互理解をもたらすための情報交流が生産要素として非常に重要な意味を持つことになる。このことについては引き続き考えてゆきたい。

付加価値生産網としての人的資本網

その情報を伝える人的資本網について言えば、情報が伝わるのは人を介してであり、そのネットワークが多様であるほど価値観の違いが際立ち、その間での相互理解は言わば情報交換利益率が高い、すなわち生産性が高いのだと言えるのではないか。かつてインターネット初期に付加価値通信網という言葉が使われたが、この人的資本網は、相互理解連鎖を生むということで、まさに付加価値生産網と呼んでも良いようなものではないだろうか。

利益の共有というイメージ

旧生産三要素では、その要素間での分配というのが、典型的にはマルクス経済学での主要なテーマの一つとなったが、新たな生産要素では、相互理解が生産なので、それは分配というよりも、利益の共有というイメージが強くなるのではないだろうか。つまり、支払いが発生するということで、支払った側にもその額と同額以上の効用が発生したとみなすことで、利益の共有が発生するのではないかということだ。そうなれば、需要側も多く支払えば多くの効用が得られるということになり、理屈としてはそれ自体需要の拡大効果を持つことになる。需要側に貨幣が潤沢に流れ込めば、このような世界も構想可能なのかもしれない。

生産行為をより社会的に捉えることで新たな時代を切り開くことができるようになるのではないだろうか。

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