腕時計

21時過ぎに現場を終えた帰り路
あまりに疲れていて、その日は珍しく新宿発のロマンスカーを使った。

離れた搭乗口から遅めに搭乗したので座席の隣にはすでに人がいたが、そのまま通路側の席に私は滑り込んだ。

新百合ヶ丘駅あたりだろうか。
人の流れができて澱んだ空気は押しやられ、小さな風が体をかすめる。

隣座席の人は本を読んでいた。
若めの男性だろう。とても静かだ。
朧げなまま、さして周りに気をとめずに再び眠気との闘いにもどった。

はたして わたしは人と認識できていたのだろうか。ただ静かな隣人でラッキーぐらいは思っていたかもしれない。
ふだんなら動きすぎないようには気をつける。でもその日はダメで放心状態で無造作に座っていた。そして ときどきハッとしては手首の時計の分針を確かめていた。そこで気を抜けば、間違いなく終点で降りることになるに違いないのだ。

町田到着のアナウンスが流れ、ほどなくして隣の席の人は立ちあがった。無臭の風がふわっと立つ。

私は前座席の背もたれのフックに掛けておいた荷物を手元に寄せて、だらしなく浅く座っていた姿勢を整えると、急いで通り道をつくった。相手の会釈に目がいく。

すごいイケメン...

失礼なことに、二度見三度見をしていた。

見たことないほど整った顔とバランスの良い体格。
軽い会釈がとても上品に思えた。

と同時に、それまで浅くだらしなく座っていたことがとても恥ずかしいことのように思え、後悔をした。

オーラすら気づかなかった。血圧も上がっていただろうか。一瞬熱を帯びたのは覚えてる。
何より生イケメンを観れて、もちろんファンですらないのにちょっとした幸福感である。得した気分になった。

推し活する子の気持ちがよくわかった。推しに会うのって、高揚感や幸福感に浸れるからなのもあるにちがいない。
推しがいない私は、突如沸いた束の間の幸運が嬉しくてたまらず、睡魔分断に腹が立つことなどあろうはずがなかった。

品よい美男子。知性も豊かそう。
隣が無防備になれるほどの存在感から一動作でしっかりオーラを漂わせるって、只者ではないな。
思いつく限りの高評価を付与しまくる。もはや美徳といえよう。
ルッキズム、いや、雰囲気勝ち、それともギャップ?
いずれにしても 侮れない。

すっかり目が覚め下車駅まで腕時計を確認することはなかった。

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