見出し画像

【写真日記】知られていないもう一つの白川郷・飛騨荘川で手打ち蕎麦と合掌造りの古民家を楽しむ

8月の三連休の初日、私は夫と共に飛騨荘川(高山市荘川町)へ行ってきました。

発端は「美味しいお蕎麦が食べたいね」の一言から。荘川(しょうかわ)町は蕎麦が美味しい所なのです。


飛騨荘川ってどんなところ?

飛騨荘川(高山市荘川町)は、平成の大合併で高山市に吸収合併されましたが、以前は大野郡荘川村でした。世界遺産で有名な白川郷(白川村)の真下に位置する地区です。

下は岐阜県の地図です。高山市の左端、白川村と郡上市に挟まれた地域が、荘川町になります。

下の地図(荘川町町づくり協議会のサイトより引用)で、位置を詳しく確認しましょう。

荘川町は、上の地図のピンク色の箇所になります。

今は、ちょうどこの町を貫く形で「東海北陸自動車道」が通っており、また、下道の158号線も整備されているので、交通の便は非常に良くなりました。しかし、昔はとても険しい道で、高山から白川村に向かうには、この荘川を経由する道路が主でした。当時は、高山から荘川や白川村へ行き来するのは、かなり遠い上に道も険しくて、なかなか大変なことだったんですよね…。それを想うと、今は本当に便利になりました。

さて、今回は、高山市街地から中部縦貫道(無料)を通って、飛騨清見インターで下道に降り、国道158号線を走行して飛騨荘川に入るルートで行ってみました。

いざ荘川へ、GO!

もうすぐお昼という時間。「蕎麦が食べたい!」と、ふと思い立ち、私たちは車に乗り込みました。高山から中部縦貫道に入ります。

雨が降るかと心配したけど、予想に反していいお天気となりました。

夏山の風景を楽しみながら、車を走らせます。

◇◇◇

途中、飛騨清見インターで降りて、国道158号線に入りました。この158号線ですが、ここ荘川地区を中心としたエリアでは、別名「飛騨やまびこ街道」と呼ばれています。バイク愛好家の人たちの間では、荘川地区一帯の道路はツーリングの名所らしく、動画がたくさんあります。

158号線に入ったら、道端に黄色い花がたくさん咲いていました。

これは、環境省指定の特定外来生物オオハンゴンソウといいます。何も知らないと「わぁ~お花畑みたいできれい~」と言いたくなるんですが、これ、繁殖力がかなり強く、ちょっとヤバい植物です。駆除するにも大変なこと。かなり広がっていました。

ここだけの問題ではなく、実は日本各地で大きな問題となっている外来植物の繁殖。みなさんの町は大丈夫でしょうか?

荘川町に入りました

そうこうしているうちに、荘川町に入りました。山道を抜けると、目の前に集落が広がりました。

ここは六厩(むまや)地区。

一見どこにでもある普通の集落ですが、なんと!この六厩地区は標高が1000mほどあり、冬はかなり冷え込む所として有名なのです。

どれくらい冷え込むのかと言いますと…。

毎年、最低気温が-20度くらいまで下がるんですよ~。

飛騨地方屈指の厳寒地です。ちなみに昭和56(1981)年の56豪雪の時には、寒波の影響で(2月28日に)氷点下25.4℃を記録しています。

そんな六厩地区を、車でスルーと通過…。

158号線を更に西へと走ります。

途中、高速道路(東海北陸自動車道)の高架を何度か見上げました。なかなか立派なものです。

こうして荘川町の中心部に無事に到着しました。

高山からは車で約45分間のドライブでした。

「そばの里荘川」でお蕎麦をいただく

それでは、荘川訪問の一番の目的である「美味しいお蕎麦」を食べにいきましょう。

このまま158号線を走っていくと、左手に大きな水車が見えてきました。

こちらは「そばの里荘川」。巨大な水車が目印です。この水車を使い、石臼でそばを挽いているそうです。

そばの里の敷地内に「心打亭」というお蕎麦屋さんがありました。入ってみましょう。

古民家を利用したお店。風情があります。

11時開店で、お蕎麦が売切れたら閉店になるとのこと…。13時過ぎに入りましたが、店内は空いていて、お蕎麦もまだ大丈夫でした。

窓際の席に座ります。少し窓が開いていて、そこから爽やかな風が入ってきます。心地よい高原の風です。

お腹が空いたので、早速、注文。

私たちはとろろ蕎麦をいただきました。

しっかりしたコシのある蕎麦。一口食べて「これは美味しい!」

荘川産そばを用いて丁寧に作られたお蕎麦。とろろにからめてズズっーといただきます。なかなか食べ応えあり。

実は私、若い頃に「そば打ち」を体験したことがあるのですよ~。あの時にいただいた手打ち蕎麦の味を思い出しました。

最後に蕎麦湯をいただきます。塩で少し味を整えてみました。温かくてやさしい味です。

お蕎麦をいただいた後は、巨大水車の近くへGO。

近づいて見ると、かなり大きくて迫力があります。

大きい水車一機と小さい水車4機、合計五つの水車が連なっているので「五連水車」というそうです。全景を撮ろうと思ったら、かなり後ろへ下がらないといけません。

せっかくなので、夫に私の写真を撮ってもらいました。

水車の前でパチリ。

だだっ広い駐車場~!中央奥にあるのが、先ほどお蕎麦をいただいた心打亭さんです。夏休みで連休中だけど、コ〇ナのせいか…人も車も少なめです。

ちなみに荘川には、三軒の蕎麦屋さんがあるようです。順番に巡ってみるのも良さそうですね~。

車に乗り込み、次の目的地へと向かいます。

民俗文化施設「荘川の里」へ

158号線をもと来た方へと戻っていくと、右手に見えてきました。

民俗文化施設「荘川の里」です。

こちらは、荘川地区にあった寄棟式入母屋合掌造り(よせむねしき・いりもや・がっしょうづくり)の古民家を移築した野外博物館です。古くは200年以上経ったものもあるそうです。

駐車場に車を停めて、中に入ってみましょう。この橋を渡ると、もうそこは「荘川の里」です。

橋を渡ってすぐ右手にある売店で、参観料を支払います。大人一人410円なり~。

パンフレットをいただき、いよいよ中を歩きます~!

荘川も「白川郷」だった

こうして、施設内の建物を順番に見学…。

しかし、最初に入った一棟目の入口の説明書きを見て、私は「えっ?」と驚きました。というのも、建物の旧所在地が、以下のように

白川郷一色村(現在の荘川町一色)

と「白川郷」になっていたからです。

「白川郷」いえば、イコール「世界遺産の白川村のこと」だと、私はずっと思い込んでいたんですよね。

ところが、正式には、岐阜県内の庄川流域の集落一帯が「白川郷」なんだそうです。ですので、ここ荘川も「白川郷」の一部だったというわけです。(お恥ずかしいことに)私はこの施設に来て初めて知りました。

ちなみに、世界遺産になった白川村や富山県五箇山の合掌造りの建物は「切妻屋根」だそうですが、ここ荘川の合掌造りの建物は「寄棟式入母屋造(よせむねしきいりもやづくり)」が特徴なんだそうですよ。地域によって、建物に特色があったのです。

しかし、今では荘川では合掌造りの家はほとんど見当たらなくなり、「白川郷」といえば白川村の代名詞となってしまいました。

ちなみに白川村のホームページはこちら

そう考えると、「荘川の里」にて、荘川地区の伝統民家がこうして保存されているということは、とても貴重で大事なことですね。

「新島の飛騨んじい」の生家を訪れる

まずは、この地の豪農の住宅として江戸時代に建てられた旧三島家住宅を見学。

ここは、荘川町歴史民俗資料館にもなっています。

この旧三島家。飛騨の人ならみんな知っている「大原騒動」(1771年・明和8年から1788年・天明8年までの18年間にわたった起きた百姓一揆)の際に、高山の豪商の旦那様でありながら、一揆の農民たちの力になり、のちに新島(元東京都)に流された上木甚兵衛さんの生家でもあります。

小学生の時、社会の時間に私は初めて大原騒動のことを学び、その時、学校の図書館で見つけたこの本『新島の飛騨んじい』を読んで感動したんですよ。今でもよく覚えています。

ですので、ここがあの飛騨んじいの生家と知ったとき、なんだか胸がジーンと熱くなりました。

60歳を過ぎた高齢で刑に服し、新島へと流された甚兵衛さん。でも、島では子供たちに読み書きを教え、島の人々から愛され「飛騨んじい」と呼ばれて慕われました。

(一揆の時の血判状〈復元〉。昔の訴訟は命がけでした)

やがて病に倒れ、85歳の生涯を閉じます。しかし、甚兵衛さんの息子の勘左衛門さんが、父の看病のために飛騨から新島に入り(幕府の温情により)、父の介護をされます。その時、息子の勘左衛門さんも、お父さんの甚兵衛さんのように島の暮らしに溶け込み、人々を助け、島民からは「孝行息子」として敬われたそうです。


甚兵衛さんが亡くなった後、勘左衛門は島に一年間残り、父の墓を建てて、飛騨に戻ります。

そんな勘左衛門さんが(新島を目指して飛騨を離れ、再び飛騨に戻るまでの10年間に)書き綴ったものや、当時の島の様子を記録したもの、更に、お父さんの甚兵衛さんが関与した百姓一揆の資料…等が、この建物の中に展示されてありました。

ちなみに、新島の小学校では、今も「飛騨んじい」が語り継がれ、子供たちが甚兵衛さんのお墓守りをしてくださっているそうです。

今回、この記事を書くにあたって偶然、新島小学校さんのこのnoteを発見したのですが、記事に目を通した時、私は胸が一杯になって涙が溢れました。きっと飛騨んじいの甚兵衛さんも、子供たちの話に耳を傾けながら、ニコニコと微笑まれて喜んでいることでしょう。

以下、旧三島家の内部です。

とても素晴らしく立派な佇まいでした。

荘川の合掌造りを楽しむ

その他の建物も見学させていただきました。

入って早々、リアルな等身大の人形がいてビックリ!

一人で入っていたら、絶対に腰を抜かすヤツです(汗)。急に動き出したら、気を失いますね…。(いや、さすがにそれは無いと思いますが…冷や汗)

真ん中の写真のお爺さんを見て、子供時代を思い出しました。私の実家の祖父も昔、こんな感じで縄をなっていたんですよ。もちろん囲炉裏じゃなくて仕事場でですが…😅。

荘川式農家住宅として江戸時代末期に建てられた旧木下家の建物。なんだか可愛らしい雰囲気です。

昔の雨具。

囲炉裏の真上、天井部分。格子の隙間を通って煙が天井裏へと入っていき真ます。こうして囲炉裏の煙で建物上部を燻(いぶ)すことで屋根裏の強度が増し、防腐や防虫の効果もありました。

こちらは旧渡辺家。遠くら見ると、屋根がコロンとして可愛らしいです。

重厚な茅葺(かやぶき)屋根。軒下の「雲」の彫刻。飛騨の伝統家屋によくみられるものです。高山市街地だと「白」なんですが、ここは「朱色」ですね。

こちらは映画「郡上一揆」のロケに使われた建物だそうです。(写真はちょっとピンボケ)緒方直人さんが演じた主人公の生家。

この映画、私はリアルで見ました。この居間に緒形直人君や父親役の加藤豪さんがいたんだなぁ…と思うと感無量です。

急な階段を上り、この建物の二階部分に行ってみました。(上から撮った図)

合掌造りの二階は、広間になっています。(ちょっとピンボケ)

昔はここで蚕を育てていました。

養蚕は農家の大事な収入源でした。

こちらはお寺の庫裡(くり)。旧宝蔵寺の庫裡です。こちらは上流民家の代表的建築物だそうです。立派な造りです。

この庫裡の囲炉裏端にも、リアル人形さんがいらっしゃいました~。不意を突かれてドッキリ!

薄暗い室内でばったり会うと、正直怖いです…😅。

こちらにも、いらっしゃいました。連れ(夫)がいなかったらビックリして叫んでいたでしょう(汗)。ずっとこの姿勢は大変ですね。ご苦労様です。

古い家具と道具たち。

ここの階段は広めです。手すりもついていて安心仕様。

庫裡の二階部分です。本当はライトが点々と灯っているだけで、ちょっぴり薄暗いのですが、カメラがお利口だったお陰で、とてもきれいに撮れました。

「釘は一本も使われていない」という屋根部分。豪雪でもびくともせず、人々を守り続けてきた大きな屋根。人々の手によって作られたこの形、昔の技術のすごさを感じます。

窓から漏れ入る太陽の光。

一階部分に下りてきました。屋内の日陰は涼しいです。

建物見学と散策を終えて

最後の建物を見学し、土間で靴を履きます。

ここで、ふと「昔の古い建物には、どこにも土間があったなぁ…」と思い出しました。いつからコンクリートに変わってしまったんだろう?

昔の土間を全く知らない人が増えている昨今、私たち日本人の住文化はこれからどこに向かって行くのでしょう。

この建物から出た瞬間、昔の記憶から切り離されるような…、なんとも不思議な感覚を覚えました。

靴を履いて外に出ると、蝉の鳴き声が力強く響き、真夏の日差しがまぶしく感じられました。

こうして「荘川の里」をぐるり一巡。建物好きの私には、とっても嬉しいひとときでした。古民家好きには、まさに「萌えスポット」ですよ~。

最後に、売店でソフトクリームを買いました。外のベンチに腰掛けて、ちょっと一休み。甘くて美味しい。

荘川の里、とても良かったです。今回は「新島の飛騨んじい」に再会できたことが一番のヒットでした。あと、白川郷について学べたことも良かったです。

ありがとう。とても素敵な場所でした。

最後に…庄川を眺める

「荘川の里」を出て、小さな橋を渡り、駐車場へと戻ります。

この小川の水がとても綺麗なんです。つい足を止めて見入ってしまいます。キャンプに来ている子供たちが、楽しそうに遊んでいました。

ちょっと足を延ばして、この小川の先へ。駐車場の横に出てみると…。

大きくてきれいな清流が見えてきました。庄川です。

川遊びをしているファミリーがいました。とても気持ちよさそう。

この庄川は、途中、御母衣ダムや鳩谷ダムを経由しながら荘川町から白川村へと流れ、富山県の五箇山を通り、やがて日本海・富山湾に注ぎます。古くは「雄神川(おがみがわ)」と呼ばれたそうです。

清々しい風とせせらぎ。爽やかな日本の夏の風景がここにはありました。

この記事が参加している募集

ご当地グルメ

この街がすき

よろしければサポートお願いします!いただいたサポートは旅の資金にさせていただきます✨