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学ぶことは分けること。〜コロナ禍で今わたしができること〜

コロナウィルスが日本に来てから、もう一年半になります。
長いですね。みなさん無事に生きていますか? 楽しいことはありますか?

第一回目の緊急事態宣言が発令されたころ、私は「一日一ポイント字を練習することを推奨してみる」と題し、字の上達のための六ヶ月カリキュラムを、毎日一ポイントずつTwitterにアップしていきました。


最初はほんの数人が見てくださっている程度でしたが、開始から約一年がすぎ、togetter編集部さんにも取り上げていただき、今ではたくさんの方に見ていただいております。

それと同時によく質問をいただくようにもなりました。
「なぜこんなことをはじめたのか?」と。

そりゃそうですよね。

字のポイントをアップされている書道関係者は多くいらっしゃいます。しかしそれは単発的な一文字のポイントにすぎません。私のようにカリキュラムとして組んだものをまるまる公開しているのは、異質だと自覚しています。しかも無料で。
これってほとんど、リスクしかないんです。

無料ですので、当たり前ですが私の儲けは一円もありません。

むしろ書道などの芸術技術面に関しては、“目に見えないものにお金を払う”ということができる人は決して多くありません。「お金を払わなくてラッキー」と思う方がほとんどです。無料で出せば出すほど私は潤わなくなります。

全ての人がそうだとは言いませんが、世の中の人の多くは目に見えない技術に対してケチなのです。それが現状です。

また私は普段、書道の講師としてお教室を開いておりますので、生徒たちから「自分たちはお金を払っているのに、無料で字の解説を出すなんて損した」と言われる可能性もあります。

他にもリスクはあります。
無料で公表するということは、同業者にパクられる可能性があります。

同じ書道ならパクるとかなくない? と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、パクられるのは指導方法です。ありとあらゆる書道講師が「楽しく最短で学べる方法で生徒を獲得したい」と思っています。指導方法をパクるのは、実はあるあるなのです。

数年前、巨大台風によって電車が全て止まり、日本停止みたいな状態になったときがありました。

私はそのときに、「台風が怖い」と言っている子供たちのために「ひらがな講座」のライブ配信を行いました。一緒に字の練習をして、台風の怖さを忘れてもらおうと思ったのです。

そのときはみんなが喜んでくれて私もとても嬉しかったのですが、数か月後そのライブ配信を見ていた某書道家が私のライブ配信内容とほぼ同じものを有料動画で配信しました。

他にもこのライブ内容をスクショした人が、勝手に画像をシェアしたり……。これほどまでに人間不信になる出来事はかつてない有様でした。

他にもリスクを挙げたらきりがありません。同業者にとにかく嫌われ、「どうせ基礎をやってない」だの「古典を学んでない」だの、好き放題言われます。

アップした私の字が、私の実力の全てだと勘違いもされます

そもそも私は毛筆専門で硬筆は苦手分野なのですが、今ではほとんどの人が私を硬筆の先生だと思っています。字の解説も、もの凄く絞って話していることを、「これがその人の考え方の全て」と認識されてしまいます。私の指導を実際に受けてみないとわからないはずのことを、載っている画像と内容だけで「こういう人だ」と決めつけられてしまうのです。

なぜこんなことを書き連ねているのかと言うと、「こんなに大変なんだよ!」ってわかってもらいたいわけではありません。

技術を仕事にしている人の気持ちになってみてほしい、のです。

絵を描いている方、アート作品を作っている方、音楽家の方、写真家の方、伝統技術を継承している方……たくさんの方がSNSで発信をしていますが、見ている方は軽い気持ちで「もっと見たい」「こうしてほしい」とコメントしますよね。書道に関して言えば「書いて」「教えて」「解説して」なんて日常茶飯事です。コメントをしたことはなくとも、同様のことを思ったことがある方は多いのではないでしょうか?

しかし、芸術技術をSNSで発信している方のほとんどは、先に述べたリスクを背負って発信しています。リスクを知りつつそれを超えるリターンに希望を託しているのです。

さて話は本題に戻り、私の「一日一ポイント、字を練習することを推奨してみる」はというと……残念ながらリターンはありません。リターンはないと腹を据えておりますので、無くて構いません。

「なぜこんなことをはじめたのか?」

この質問をくださったのは、アートや技術者の方々でした。みなさま、SNSでの無料公開のリスクを実感されているのでしょう。
「えみちゃんに何か得はあるの?」と訊かれ、「得はない」と答えると、慌てて止めてくださる方もいました。

私だって正直言えば、何度もやめようかなと思いました。だって、手本になるようなクオリティのものを毎日アップするって、とってもしんどいもん。

なぜ毎日しんどい思いをしてリスクしかないことをしたのか?
なぜ苦労でリスクを買ったのか?
その理由をお話ししたいと思います。


・コロナの驚異

2020年、2月。
私は書道の会の全国展の作品を書くのに精一杯の毎日を送っていました。
主宰している書道教室も少しずつ生徒数が増え、イベントの参加や仕事の依頼などもあり、書道で仕事をするということに自覚を持ち始めた頃だったと思います。

3月になるとコロナウイルスが本格的に猛威を振るい始めました。
本音を言うと私の好きなことは全部家の中にあるので、外に出るなと言われたら喜んで家で過ごしていました。しかし5月、緊急事態宣言が発令され、勤めている美術館が臨時休館となり、私はやっと事の重大さに気づきました。
ニュースを見れば感染者の数と死者の数、そして医療崩壊、経済の不安、飲食店や観光業への打撃……。私の書道教室もお休みをすることになりました。

周りの人が無事であってほしい。

でもそれと同時に、別の感情が私の中からふつふつと湧き上がってきたのです。

私も何かしないといけない。
私にできることはなんだろう。


・学ぶことは分けること

私も何かしないといけない……なぜそう思ったのか。
それはとあるドラマがきっかけでした。

韓国ドラマの『トンイ』にこんなシーンがあります。

勉強が大好きな王子が、大きな声で本を読んでいると、王子付きの先生に「うるさいですよ」と怒られます。
王子は怒られても嬉しそうに、今度は声を出さずに、口パクをして本を読みます。
その王子の楽しそうな姿を見て、先生が尋ねました。

「王子さまは本がお好きのようですね」

「はい!本を読んでいるときが一番楽しいです」

「得た知識を何に使う気ですか?」

「え? それはもちろん、分け合うためですよ」

「“分け合う?”」

「はい。母上に言われているのです。神に与えられた才能は、人々の才能を分けてもらったものだから、一生懸命勉強して力のない人の役に立てと…」


王子は誰かと分け合うために学んでいたのです。

誰かのために学ぶ……私にはない考え方でした。

私も勉強が好きでいろんな知識を得たいと思っていますが、それは自分の知的欲求を満たす為です。

しかし、知識を分けるという考え方は、この世界の仕組みの全てだと思いました。

この世界には学ぶべきことが数多あり、一人でそれを補うのは無理です。でも一人一人の知識は偏っていても、たくさんの人が教えあえば全てをカバーできます。

例えばこのコロナ禍においても、医療従事者の方は知識を分けることで人の命を救っています。技術者の方の知識で感染予防ができ、また販売職の方の知識のおかげでまんべんなくマスクや消毒液が行き渡っています。世界は分け合うことではじめて、良い方向に回り始めるのです。

ならば、私にできることは? 力のない人の役に立つために、分け合える知識は何だろう。

緊急事態宣言中ずっと考えていました。

コロナ禍において力のない人達とは誰だろうと考えたとき、私はまっさきに子供達や高校生、大学生……突然学ぶべき場を失った人たちを思いました。

さすがに学校の代用となるほどのことは教えられませんが、私は楽しく効率よくきれいな字を学べるように指導することだけは、絶対的な自信があります。

字に興味はないかもしれない。本来したい勉強ではないかもしてない。でも「学ぶ」ことを求めている人がいたら、それに応えたい。そして、字を書くことを楽しんで、家にいてもらう=外に出る人を一人でも減らすことができたら、医療従事者の方の助けになれる……そんな壮大なことを考えていました。

偽善かもしれません。夢見がちな、独りよがりかもしれません。

でも学ぶことは分けること
やらない理由はなかったのです。


・もしも吹雪で飛行機が飛ばなかったら

もう一つ、「今自分にできることは何だろう」という考えに至った理由があります。

私は空港が好きで国内旅行でもやたらと飛行機に乗りたがるのですが、空港に行くといつも想像することがあります。

「もしも今、吹雪で飛行機が一台も飛べなくなったら、自分には何ができるだろう?」

例えば吹雪が明日の朝まで続くとして、交通手段も全て止まってしまって、空港の中に何千人もの人が閉じ込められてしまったら私にできることは何でしょうか?

こういうシチュエーションは映画やドラマでもよくありますね。

こんなとき、医療従事者の方は具合が悪くなった方を看ることができます。介護士の方はお年寄りや体の不自由な方のお手伝いをすることができます。保育士の方や教育関係の方は、退屈した子供たちの面倒を見ることができるでしょう。音楽家の方は奏でることで人々を楽しませることができるし、画家の方は誰かの絵を描いて喜ばせることができるかもしれません。

私がその中でできることは、きれいな字の書き方を教えることだと思っています。地味なことしかできなくて恥ずかしいですが。

ご自分の名前でもいいし、ご両親の名前でも、お子様の名前でも、恋人の名前でも。せめて、それくらいしかできないけれど、快く教えてあげよう、と。

字を書いている間は不安な気持ちが消えてくれたら嬉しい、退屈な時間が豊かになったら嬉しい……そんなことを、空港に行く度に考えていました。

このコロナの状況は、空港に閉じ込められた状況と似ているような気がしました。みんな外に出られない不安と、現状が動かないストレスと、未来が見えない焦りに苛まれています。

全ての人に喜んでもらう必要はないんです。ほんの2,3人でもいいから、私が字を教えることで喜んでくれたら、それはもしかしたら私が人生のほとんどを費やしてきた書道にとって一番意味のある行動になるのかもしれないのです。


・得をしているのは誰か

先程紹介したドラマで先生の質問に王子がこたえた後、先生はこんな言葉を呟きます。

「自分だけいい思いをすればいいものを……。そのような母親を持つ王子様が心配ですね」

この言葉に「え!」と思う方もいるかもしれません。

自分だけがいい思いをしている人を思い出して「あいつのことだ!」と批判する気持ちになった方もいるでしょう。

でもよく考えてみてほしいのです。この言葉は私のことでもあるし、あなたのことでもあるのです。

ここまで私はコロナ禍で、自分ができることをするために、誰かの役に立つために、字の講座の配信をしてきたと書きましたが、純粋に善意の気持ちでできているかといえば決してそうではありません

喜んでくれるのは嬉しいけれども、本当に私の字を気に入ってくれたのであれば、お手本を一つでも、通信講座を一回でも、注文してくれればいいのに、と思う気持ちもあります。

自分がいい思いをしたいという気持ちは完全にゼロにできるわけではありません。

私自身が一番よく知っているのです。効率よく学べる字の書き方やポイントを教える技術を、簡単に得たわけではないことを。例えば、25年間寝る間を惜しんで得た仕事のスキルを「新人研修のために6か月間無給で教えてくれないか」と言われたら引き受けることはできますか?

私はずっと、その気持ちと葛藤しているのです。自分に何一つ得はないと腹を括っても、心は揺らぐのです。

当たり前ですがSNSで無料で見れますので、お手本の注文はめっきり減りました。

はっきり言えば、無料のお手本とポイントはそっくり書くための材料であって、字の理解をするために添削は不可欠なのですが、ポイントを押さえればいいと思った方は多く、通信講座にお金を払わない人が増えたことも事実です。

時折Twitterで、アート関係者に対して「お金を払わない人」に言及されているのを見かけますが、これが現実です。多くの人は、目に見えない技術にはお金を払いません。

私は常に悩んでいます。このようなカリキュラムを無料で発信することによって、書道の真の深みを知ろうとする人を減らしてしまったのではないか、と。

私は素敵なクリエイターさんをSNSで見つけたら、なるべくその方のグッズなどを買って少しでも貢献できるよう努めています。

これは自分も発信する側だから分かることなのかもしれませんが、クリエイターさんが必死に得た知識を発信し、それを無料で受け取るという状態は、自分だけがいい思いをしている状態なのです。クリエイターさんに対価を返してはじめて、互いがいい思いをする、”分け合う”状態になります。

人は不思議なもので、自分が損をしているときには不公平を叫びます。公平なときでも不公平を叫ぶ人もいます。しかし、自分が得をしているときに不公平を叫ぶ人はほとんどいません。得をしているときに公平だと思うのです。

だからこそ、得をしているのは誰かを改めて考える機会を持つことは大切だと思います。

人は「自分だけがいい思いをしている」ことに気づきにくいのです。いい思いをしているときは、その状態にいちいち疑問を感じることはありませんよね。

私はリターンがなくてもいいと思って、「一日一ポイント、字を練習することを推奨してみる。」を始めました。でも、リターンが全く欲しくないかと言えば、やっぱり嘘になります。

無料で見て済ませるだけの人が多ければ多いほど、「私の字は無料の価値しかないと思われている」ということを痛感しますし、せっかく作ったからには一人でも多くの人に見てもらいたいし、拡散してもらいたいです。私の字が気に入ったのであれば、お教室や通信講座で実際に習ってもらいたいです。

でもやっぱり、学ぶことは分けることでありたい。そう思うから、自分がいい思いをしたいという気持ちを抑えようとも思う。それが、今私にできることだと思っています。

自分だけがいい思いをしている人を名指しして責めることは簡単です。でも先ほども言ったように、いい思いをしているのは、あなたかもしれないし、私のことでもあるのです。全ての人にとって自分のことなのです。だからこそ私は、分け合う道を選びたい。

私の力はとても小さく、医療従事者の方のように誰かの命を救えるわけでもなければ、特効薬やワクチンを作れるほどの知識もなく、飲食店を救えるような経済対策を考えつく能力もありません。だからといって何もしないで、じっと見ていればいいのでしょうか?

それはやっぱり違うと思うのです。

できることをする。分け合えるものを分ける。みんなが大変な時はそうやって助け合って生きていきたい。私はそうゆう世界を望んでいるのです。私が望む世界になるためには、まず私が歩き始めるしかありません。

でも私だって、ごはんを食べないと死んでしまうし、住む場所も必要だし、たまには万年筆のインクを買いたいです。ボランティアだけでは生きていけません。私もあなたと同じ人間で、お金がないと生きていけないということを気づいてくれる人がいたら、その人のために今後は字を書いていきたいです。

そうやって歩いた先に、書道を仕事にして生きていく本当の意義が見えてくるのではないかと思っています。

分け合うことを仕事に持ち込むのは、とても難しいことだと思います。でもきっと私はなんだかんだ言っても結局、分け合うことが好きなのです。

分け合うものは、書道でなくても、なんでも良かったのです。ただ私は寝る間も惜しんで字を書いてきただけで、たまたま字を教えることが得意なだけで、他のことでもなんでも良かったのです。分け合うことができるのならば。

コロナ禍で、軌道に乗り始めていた書道の仕事がほとんどなくなり、もう書道を仕事にするのは無理だなと諦めたのは、一度や二度ではありません。むしろ今も思っています。

でも軌道に乗れなかったからこそ、分け合うという選択肢を見つけることができたのかもしれない。
そう思えばまだ頑張れそうな気もするし、そう思わないとやってらんないぜ、と笑ってしまう自分もいます。

これから先、何があるかわかりません。やっぱり書道を仕事にすることは無理なのかもしれません。分けてばかりでは、利益なんて延々と出てきません。

それでもやっぱり、自分だけがいい思いをしないように、分け合える人でありたい。自分がどんな人でありたいのかを基盤にして、仕事を組み立てていきたい。自分のあるべき姿を基盤にしないと、どんなに高く積み上げたところで足元から崩れてしまいそうです。

人より遅くてもいいし、人より高くなくてもいい。

「誰かの役に立ちたい」
そんな思いではじめた「一日一ポイント、字を練習することを推奨してみる。」がいつか私の書道の仕事の基盤になれば、そのとき私は胸を張って、書道を仕事にしていると言えるようになるのかもしれません。

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